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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
東亞先覺志士記傳 동아선각지사기전
일러두기

一七 天佑俠の活躍(二) 俠徒の一行全州城に入る 天佑俠の一行は其の翌日淳昌を出發し、炎天下の徒步旅行を續けること三日にして全羅の首府全州に着いた。 この地を目指して進んだのは、日本の同志に東學黨の狀況を電報し、且つ應援の同志の渡鮮を求めておいて京城に赴く爲めであつた。 全州は觀察使の駐在地で、東學黨の攻擊を受けて以來、江華精銳の兵五百人を駐在させて居り、しかもそれらの兵は新式五連發の銃を持つて居るとの事であつたから、若し彼等が天佑俠に對し敵意を抱くやうであつたら、俠徒が如何に智勇に富むとも、十四人の小勢では衆寡敵すべくもなく、自ら死地に入るも同樣なので、先づその情勢を探るべく、內田、時澤、吉倉の三士を先行させ、他の者は數十分遲れて全州に入ることゝしたのである。 三士が全州の城門に達したのは恰も日暮に近い時刻であつた。 當時朝鮮では郡衙以上の官衙では日暮には音樂を奏しつゝ閉門式を行ひ、然る後城門を閉ぢる規則となつてゐた。 三士が城門に達したのはこの閉門式が將に終らうとする際であつたから急いで入門しようとすると、警衛の兵士は銃劍を擬して之を拒んだ。 剛毅の內田はその銃劍を拂ひ除けて進入したが、吉倉は內地旅行の公文の有無を質されて自分の所持する旅券を示し、その一枚の旅券によつて他の十三名の入門を許可せよと主張し、大に論爭に努めたのである。 衛兵は許否を決し兼ねて長官の許に相談に行つた末漸く入門を許すことゝなつた。 この談判中に後から來た者も城門に達したのであるが、吉倉の談判に應對してゐた衛兵の頭らしき男が長官の許へ相談に行つて來てからは態度が俄に丁寧となり、今まで入門を阻止してゐた衛兵等を叱咜するやら、一行を導いて宿舍に就かせるやら、晩餐の準備まで斡旋するに至つたのである。 斯く著しく態度を變へて來たのは寧ろ無氣味に思はれる程であつたが、豪傑揃ひの一行とて深く意にも留めず、宿に落付いて燒酎など命じ、悠々と晩食を濟して寢に就いたのである。 何ぞ知らん守兵が丁寧な態度を取るに至つた裏面には、深い魂膽が存するからであつた。 俠徒生捕の電報と山座領事館補 一行は、翌朝日本へ電報を發せんとしたところ、電信不通と稱して受附を拒んだ。 一行が全州に入つた目的はこれがために水泡に歸したのであるが、更に出發の準備を整へようとすると、引連れて來た馬夫は馬諸共何處へ行つたか行衛不明となつてゐた。 一行が驚いて諸所を搜索してゐると、附近の市民はそれを見て意味ありげに嘲笑的の態度を示し、全體の空氣が何となく前夜とは變化してゐるのを感じさせた。 同志の者は觀察使が策略を以て一行を窮地に陷れんとしてゐるのを感知して、怒氣心頭に發し、一部の者は觀察使を訪ひて詰問を試みる一方、他の者は或は城門附近の狀勢偵察に努め、或は爆彈の準備をするなど萬一の場合に處すべき用意をなしたのである。 蓋し觀察使は最初天佑俠徒が東學黨と關係あるを知つて之を捕縛しようと欲したのであるが勇武なる俠徒と正面衝突をなしては、如何なる椿事を惹起するかも知れないので、遠捲きにして搦め取らうと企て、前の晩には俠徒が希望するまゝに入城させておいて守兵を以て四方の城門を固め、先づ之を袋の中の鼠とし、馬夫を威嚇して馱馬と共に他へ逃亡させ、斯くして荷物運搬の自由を奪ひ、俠徒が進退に窮するのを待つて牢獄に投ずるか、若くは日本の官憲に引渡しの手續を取り、兎に角此處で俠徒を處分しようと計畫してゐたのである。 しかし觀察使の手で俠徒を捕縛することは至難であるから、彼は逸早く京城の日本公使館と釜山の總領事館に打電し、『東學黨中にあつた日本の兇徒數十人を生擒したから、速に吏員を派して受取れ』といふ意味の通知を發したのである。 公使館からは返電を發しなかつたが、釜山領事館では領事官補の山座圓次郞は俠徒の一行が釜山を出發して以來、心竊かにその消息を心配してゐた折柄であるから、この電報に接するや一應は驚いたが、考へて見ると朝鮮の官吏が彼等一行を捕へ得る筈がないから、此間何等かの事情が潛むものと推斷し、直に『宜しく護送し來るべし。 然らざれば警官は派遣する能はざるも軍隊を派遣すべし』といふ返電を發した。 すると果して翌日に至り、觀察使から再び釜山領事館に宛て『十四人の日本人は傍若無人の行動を恣にして城內を脫出し、行く所を知らず』といふ電報が到着した。 山座等は『觀察使の所謂生擒といふのは歡迎の意味だつたであらう』といつて哄笑したといふことである。 當時京城に在つた日本有志は公使館に天佑俠生擒の電報が達したと聞き憂慮したが、間もなく脫出の報を得て安堵したのであつた。 俠徒の憒激 觀察使の計略に掛けられた俠徒は、袋の中の鼠同樣の境地に身を置いて頻りに脫出の策に腐心したが、城門偵察の結果は爆破によつて決死の脫出を圖るより外に策なしと見られ、しかも斯の如き方法で脫出したのでは荷物を携へて行くことが不可能であるから、何よりも先づ馬を手に入れることが急務であつた。 一方觀察使の詰問に出掛けた一隊は、觀察官衙の正門に立つて案內を乞ふたが、扉が固く鎖されてゐて、呼べど叩けど寂として人影さへ見えなかつた。 仕方なく憤慨しつゝ歸途に就いてゐると偶々前方から大官らしき者が數名の從者を連れて來るのに會したので、田中侍郞が走り出でゝ其の前に衝立ち『貴公等は何故あつて吾等の連れ來りし馬や馬夫を隱したか』と聲を勵まして詰ると、その者は驚いた樣で『左樣なことは一向知らぬ』と答へた。 大官の人質 田中はその言葉の終るを待たず、右の手に刀を引拔き左の手で相手の胸倉を摑み『知らぬとは云はせぬぞ』と眼を瞋らせて叱咜したので、相手は顔色を蒼白に變じ一言も發することが出來ず、唯だワナワナと慄へるばかりであつた。 此の時三十人許りの兵士が驅け足で來て俠徒の一團を取圍み、銃口を擬して發射する姿勢を示したが、大原義剛が怒つて大刀を引拔き、『汝等一發でも放たば、この大官の首は銃聲と共に地に落ちるぞ、そして汝等も身首所を異にするからその覺悟をせよ』と大音を揚げて叱咜し、傍に居た鈴木、武田、白水もスラリと刀を拔いて斬つて掛るべき身構へを示した。 其處へ續いて千葉、日下、大久保、井上、西脅の五人が拔刀で驅付けて來たので俠徒側の威勢は益々加はり、兵士等は射擊の姿勢を取つたまま空しく威嚇の態度を示すのみであつた。 田中に胸倉を取られて慄へてゐた大官は、兵士等に銃を擬することを止めよと命じ、田中に向つて『どうか此の手を放されよ。 馱馬や馬夫が在らざれば必ず人夫を周旋せん。 途上にての問答は甚だ見苦しき故、我が官衙に來らるゝことを望む』と歎願し、田中が放すと、先に立つて官衙に案內した。 官衙に着くや大官は俠徒に向ひ『實は察せられる通り諸賢士の連れ來られた馬や馬夫は昨夜放逐して當地を去らしめたのである。 今は何れの地に在るか知ることが出來ぬので、他の馱馬を以て代へようとしても、何分東學黨徒と戰爭して以來馱馬が缺乏して目下當地には一頭の馱馬もない有樣である。 馬に代ふるに人夫を以てすることを何卒お許しを願ひたい』と始めて本音を吹いて陳謝したのである。 俠徒も已むを得ず之を諾すると、直に小役人に命じて五六名の人夫を連れ來らせたので、俠徒はそれを引連れて宿所に歸り、荷物を人夫に負はせ一同之を警護しつゝ出發した。 然るに南門の邊に到ると、百名許りの兵士が嚴重に門を護つてゐて一行の通過を拒み、數十名の兵士は門內に立ち塞がつて通路を遮り、其處に端なくも競り合ひが起つたが、 全州城の脱出 先頭に立つてゐた吉倉が拔刀して威嚇したので、兵士が驚いて颯と道を開いた處を、脫兎の如く先づ吉倉が突出し、續いて內田、白水、大久保、大原、大崎と勇士の面々が進み、一同漸く城門を出で、玆に無事全州城を脫出することを得たのである。 俠徒雞籠山に入る それより一行は忠淸道雞籠山の巨刹新元寺を目指して進み、途中人夫の逃亡に遭つたり、食物の缺乏に苦んだりして、數日間艱苦の旅を續けて漸く新元寺に到着したのである。 新元寺は雞籠山の山中にある巨刹で、四面蓊鬱たる綠の林に圍まれ、淸流が傍を環り、一帶の長壁境を劃するところ、洞門高く聳え、洞門を入れば廣い庭があつて、庭の盡くる所に大雄殿があり、古色蒼然たる大小の僧房佛堂之に竝び、後方には峨々たる山が聳え、前方には田園稍々開けて所々に農家の散在するを眺望することが出來る形勝の境地である。 一行は此處を本據として休養する傍ら將來の對策を練り、且つ京城の形勢を偵察する一方、日本同志との聯絡を取り、倂せて所在の東學黨を招集する豫定で特に此地を擇んだのであるが、一行が到着して暫時の滯在を請ふと、寺僧は快く承諾して親切に迎へ入れたのである。 鷄籠山籠居の目的 多くの危險と勞苦とを冒し來つた一行は、この幽寂の境に身を置いて、朝は寺僧の讀經の聲に目を覺まし、起き出でゝは傍らの淸流に顔を洗ひ、晝は林間に幽禽の囀るを聞き、夜は時に猛虎の吼えるを耳にするといふ有樣で、僅に一兩日の休息ですつかり疲勞を恢復したので、 田中大崎等の二隊前後京城の偵察に向ふ 一部の者は京城に潛行して形勢を探り後圖に資することゝなり、先づ田中、時澤、大原の三士が第一隊として出發し、更に三四日を經て大崎、吉倉、白水、日下、大久保が第二隊として潛行した。 蓋し第二隊は、風雲切迫の際時機を誤らざる働きをなすため繰出した譯であつた。 田中等の入京と京城の狀勢 田中、大原、時澤の第一隊は捷路を擇んで急行し、無事京城に到着したが、此時旣に仁川に上陸した我が混成旅團の一部は京城に入つて王城守護の任に當つて居り、支那公使袁世凱を始めとし在留支那人の大部分は京城を去つてしまつてゐた。 田中等は混亂の狀態に陷つてゐる京城市街に潛入して形勢を觀察した結果、最早東學黨と約した快擧を行ふ必要もなく、天佑俠徒の目的として奮起した日淸開戰も愈々目前に迫つてゐることを知つた。 從つて以後の行動は愼重且つ機敏を要するものあるを以て前途の對策に奔走してゐる裏、日本官憲の注目を惹き、京城に留ることが危險となつて來たので、協議の末、陸軍中尉の職にある時澤右一は歸朝して軍籍に復すべく、田中、大原の二士は雞籠山會議の申合せに基き、竹山城安城邑の金某の宅に赴き、其處で同志の來着を待つことゝなつた。 大崎等の成歓通過と支那軍の戦備 第二隊として雞籠山を出發した一行は、公州に着いてから相談した結果、二組に分れて京城に急行することゝし、大崎、吉倉の二士は左道を取り、日下、大久保、白水の三士は右道に依つて進むことゝなつた。 斯くして大崎と吉倉とが成歡に着いた時には、市街には支那兵が夥しく入り込んでゐて、郡衙の門前には黃龍旗を始めとし長旗短旗風に靡きて翩飜とひるがへり、市街の兩側の家屋には支那兵が充滿し、其處を通過することは頗る危險であつたが、幸に誰何も受けずに市街を通り拔けることを得て漸く郊外に出ると、其處にも亦た畑といはず丘といはず多數の支那兵が屯ろして居つて、諸所に堡壘を築き戰備に汲々たる有樣であつた。 二人は相顧みて、淸軍が斯の如く戰備を整へて居る點から察するに、日淸兩國の兵火を以て相見ゆるに至るは明である。 唯だ憂ふる所は日本の兵を進むること遲く、淸軍に機先を制せられんとすることなきやの點である。 何れにしても早く京城に着いて狀勢を明にせねばならぬと語り合ひつつ前途を急いだ。 二士は夜行で道を急ぎ、大雷雨に遭つたりして難儀を極め、途中一泊して七原驛に達した時には、支那兵中勇敢を以て聞えた滿洲の白馬隊が其處に入り込み、市中白馬を以て埋めてゐるのを望見し、危險の身に迫れるを思ふて安き心もしなかつた。 然るに之より前二士は二名の步兵を從へた一騎の支那兵が鮮人通譯を引連れたのと道連れとなつたが、 不思議たる支那兵の原意 不思議にもその支那兵が二人に對し毫も敵意を示さず却つて保護を加へる態度を取り、絶えず後になり前になりつゝ話し掛けて、七原通過の際の如きは其處に宿營してゐる支那兵に向ひ何事か語つては二人に對し早く來れと招く樣子をして、この危險區域を無事通過することを得させたのである。 そして七原驛を出離れた處で立ち止り『これから先きには淸兵無し。 しかし遲々として此地にあらば危險來る故速かに走つて此地を去れ』と警告して別れ去つた。 大崎と吉倉とは全く地獄で佛に遭つた氣持がしたのであるが、それにしても何故に此の支那兵が二士に斯くも好意を示したか、唯だ唯だ不思議といふの外なく、其時は天佑俠の勇士として之を天佑に歸し、天意天佑に答ふるべく益々奮勵しようといつて止んだのであるが、大崎と吉倉とは、後年になつてもこの時のことを思ひ出して、どうしても不思議の謎が解けなかつたといふ。 却說その時二士は支那兵の親切な警告に從ひ、走つて一里許りも行く頃、餘りに急いだので遂に疲れて、とある木蔭の小店の邊に達した時、一枚の蓆が其處に敷いてあるのを認めるや其上に打倒れて暫らくは互ひに言葉を發することも出來なかつたのである。 漸くにして二人は小店に舐瓜のあるのを求めて食ひ、これで稍々蘇生の思ひをなしたのであるが、やがて又激しい疲れを感じて二人とも其儘其處で何時しかうとうと夢路に入つたのである。 大崎吉倉の因臥と日本騎兵の來進 然るに忽ち附近が騷がしくなつて、朝鮮人が『兵隊が來た、兵隊が來た』と叫びつゝ驅け㢠つてゐる聲が不圖寢耳に入つたので、ハツと驚いて身を起し、近くにゐた二三の朝鮮人に『淸兵が來たのか』と尋ねると『イヤ、日本兵が多數來たのだ』と答へた。 起きあがつて前方を望むと、まがふ方もなき日本の騎兵が堂々と列をなして前進し來るのが見えた。 大崎と吉倉とは驚喜して路傍で待つてゐると、騎兵の一隊は戛々たる馬蹄の音も勇ましく面前に行進して來たが、朝鮮人の蝟集してゐる中に二人の日本人が居るのを目さとく認めて一將校は不審の色を浮べつゝ『君等は日本人ではないか』と訊いた。 二士の答へを聞いた將校は『何故こんなところに來て居るのか、又何處から來たのだ』と問ひ質し頗る意外に思ふ樣子であつた。 二士が『吾々の通過して來た經路と實見した所とを詳しく話したいから暫らく停まられてはどうか』といふと將校は點頭いて全員に休憩の號令を下し、兵士等は忽ち馬から下りて各々適宜の場所を擇んで休息を始めた。 二士沿道支那軍の狀勢の説明す 將校が一人の曹長を呼んで共に兩士の話を聞くべく熱心に耳を傾けるのに對し、大崎と吉倉とは交々見聞し來つた所を語り、成歡の狀勢と淸軍の兵數の槪略、堡壘築造の狀況、安城川の深淺、牙山白石浦方面の道路とその里程、七原に於ける白馬隊の狀景、其他兩士に非常な便宜を與へた支那兵の行動迄も具さに述べた。 將校は聞き終つて『兩君の報告を得て誠に滿悅に堪へぬ。 倂し兩君のいはるゝことに疑ひを挾む譯ではないが、吾々の腑に落ちぬことが多々ある。 殊に兩君に好意を示したといふ支那兵に就ては一層さうである。 苟も日本の勢力を朝鮮から一掃しようとして出兵した支那の兵員が、日本の服裝をした日本人が堂々と通過するのを袖手傍觀したり、却つて之に親切を盡す如きことは想像も出來ぬ』といつて之を信ぜぬやうな口吻を漏らした。 兩士が之に對し『道理より推せば吾々も左樣に思ふのであるが、倂し事實は何處までも事實であつて、どうすることも出來ぬ』といふと將校は聲を立てゝ笑ひつゝ『君等は多少朝鮮の事情に通じて居るから、殊更に奇言を以て吾等を飜弄せんとするのではないか』と益々輕侮の色を現はしたので、利かぬ氣の兩士は勃然と怒り『今や國家の大事に臨み、吾等は忠君愛國の情人後に落つるものではない。 斯る際僞言詐語を弄して軍隊を欺く如きことは吾等の斷じて爲し能はざる所である。 吾等の言を信じまいとするのならばそれは貴下の勝手である』といひ捨てゝ再び蓆の上に歸らうとすると、將校と曹長とは慌てゝ引止め『吾等は決して最初から疑念を抱いて兩君の言を聞いて居たのではない。 唯だ事實が餘り意外のことなので信ぜんとするも信ずることが出來ぬので、遂に失敬な言葉を用ひた次第である。 どうか立腹せずに見聞の次第を聞かせて貰いたい』と頓に態度を改めて立腹せる兩士を宥めるのであつた。 兩士も素より我が軍の參考になることは充分に話したいのが本意であるから、將校の質問に應じて參考となるべき事柄を說明し、それを曹長が筆錄し、一應兩士が目を通して誤りなきことを確めた後、嚴封して傳令に持たせ旅團本部へ馬を馳せさせた。 斯くして我が騎兵隊は其處で食事を終り、馬にも充分に糧秣を與へた上、戰鬪の用意をも整へて、七原に向ひ勇しく行進を起したのである。 二士の安城到着と田中大原等の先着 騎兵隊と別れた大崎吉倉の兩士は、更に幾多の困苦を嘗めつゝ兩三日の步行を續けて、豫定なる安城邑金某の家に無事到着した。 兩士が到着した時には、旣に日下、田中、大原、大久保の同志が先着して待つて居り、白水は雞籠山に殘留する鈴木、內田等を迎へるために、再び雞籠山を指して出發した後であつた。 尙ほ大崎、吉倉が我が騎兵隊と別れて此處に達する途中に於て遭遇した幾多の奇話珍談もあるが、それらの事は玆に略することゝする。 安城邑の金氏 天佑俠の志士が身を寄せた安城邑の金氏といふのは、前に日本駐在公使たりし金嘉鎭の兄弟の家で、その時の主人は金嘉鎭の甥に當る者であつたが、兩班に屬する歷々の家柄で、邸宅も宏壯であつたから志士が潛伏するには申分のない場所であつた。 恰も吉倉、大崎が到着した日、この地に日本の騎兵が二騎乘込んで附近の情勢を偵察し、其儘滯在してゐたが、翌々日には更に步兵の一隊が堂々と進んで來た。 志士一同は之を通路に出迎へ、先頭に進んでゐる一士官に歡迎の意を述べ且つ『吾等同志は多年朝鮮に在るもので、皆多少の經驗を持つてゐるから、若し陸軍で御用あらば遠慮なく申聞けられたい』と申出た。 小原大尉を迎ふ その士官は中尉の服裝をしてゐたが『後から中隊長が來られるから萬事中隊長と相談されたい』と答へて前進を續けた。 やがて中隊長が肥馬に跨つて進んで來たので、一行は前と同樣の意志を通じると、中隊長は喜びの色を湛へ『これから一里許り前進すると休憩するに都合のよい場所があるから同行して貰ひたい』と希望した。 これは獨立中隊の隊長小原文平といふ步兵大尉であつた。 それで一同は直ぐ軍隊と共に前進したが、一里許り進むと左右山を以て圍まれ前方は山勢相迫つて恰も門の如くなつた形勝の地に達した。 小原大尉は此處で全員に休憩の令を下し、馬より下り改めて一行に挨拶した後、『この一隊は成歡より西北二里ばかりの稷山の裏手に出で、七原成歡方面より進む旅團本部と策應して敵を挾擊する爲め前進した獨立中隊である』とて、中隊幹部と共に地圖を開いて一行に向ひ、稷山方面に關する地理を尋ねた。 田中侍郎の明快なる地理説明 一行中の田中侍郞は元參謀本部附の陸軍大尉であつたのみならず、この方面の地理に精通してゐたから、一一明快な說明を與へ、その示された地圖の誤謬まで正したので、大尉等は今更の如く驚き且つ喜んで、早速三名の騎兵を呼び稷山方面の偵察に赴かせた。 斥候の出發後、小原大尉は一行に向ひ『二三日前、成歡、七原、振威方面の敵狀や牙山、成歡、稷山間の地理里程、其の間にある河流の深淺廣狹等を精細に偵知して旅團本部に報告した者がある。 この大膽なる報告者は民間の人だと聞いたが、或は諸君の知合ひの人ではあるまいか』と訊いた。 田中は笑ひ乍ら大崎と吉倉とを指し『それはこの兩人だ』といふと、 小原大尉等大崎吉倉の大膽に驚く 大尉を始め將校連は非常に驚き『貴下方は何といふ大膽の人であるか。 しかし如何に大膽の人にせよ、あれ程の危地を無事に通過せられたのは實に不思議中の不思議といふ外はない。 これは慥かに天佑である。 この天佑ある二豪傑が來つて我が中隊と行動を共にせらるゝ事となつたのは誠に幸で、我が獨立中隊が見事に任務を全ふすることを得るは疑ひない』と述べ、更に中隊の全員に向ひ二士の事を告げて『我が隊には旣に天佑あり。 隊員は奮鬪邁進、誓つて日本軍隊の名を汚すな』と激勵し、諸兵は一齊に萬歲を叫んで士氣は一層振ひ立つたのである。 斥候騎兵銃火を浴びて歸る 大尉はやがて行李の中から二本の葡萄酒を取出し『諸君の勞を祝する爲め、取つて置きのこれを拔くことゝする』とて、先づ大崎と吉倉とに勸め、次で同志の面々が之を飮み廻はし暫らく談笑に時を過ごしてゐる裏に、前に派遣された斥候騎兵の中の二騎だけが歸來して、稷山に接近して八方に注意しつゝ前進中、突然敵兵が現はれて四方から銃火を浴びせられ、その爲め前進を中止して退却を始めた處、敵が盛んに追擊して彈丸を雨の如く集中し、人馬共に斃れるかと思つたが幸に歸還することを得た旨を報告した。 そして他の一騎は退却中別れて不明となつたとのことであつた。 大尉は『お前等の任務は偵察の狀況を報告するのが第一の要務である、戰友の生死はお前等の不人情の爲めではないのだから、氣にせずに益々奮鬪する覺悟が肝要である。 我軍には天佑があるから他の一人も無事に歸つて來るであらう。 どうも御苦勞であつた』と優しく激勵する樣はその人格も偲ばれて志士達にも床しく感ぜられるのであつた。 他の騎兵も果して大尉のいつた通り、少しく遲れて歸來し、先着した斥候と大同小異の報告を齎らした。 夕食後は各所に步哨を配置し、時々斥候を出して敵の動靜を窺ひつゝ山上三四ケ所では盛んに篝火を焚いて勢威を示し、深更十二時を期して前進を開始する旨を豫告して全隊はしばし露營の夢を結んだ。 天佑俠の志士等も亦軍隊竝みに其處で露營したのはいふまでもない。 小原中隊の稷山進擊と俠徒の從軍 前進命令が下る頃には細がな雨かしとしとと降り初めて、四面は全く暗黑であつた。 中隊の辿り行く道は稷山への近道であるから、道とは名のみの狹い惡路で、闇を衝いての行進は何處が道やら判らず、畑の中へ迷ひ込んだり溝の中へ足を踏み込ませるやうなことも度々であつた。 非常な困難を冒して屈せず撓まず强行軍を續け、約三里許り進んだ頃、成歡方面に當つて砲聲が轟き、小銃を盛んに發射する響きも亦かすかに聞えた。 成歡方面の砲聲 時は正に三時頃と思はれた。 この砲銃聲は本道を進んだ本隊が愈々敵に向つて火蓋を切つたものと知られた。 形勢斯くの如くなる以上、中隊は未明に稷山の裏に到着しないと不利なので、益々足を急がせたのであるが、雨は止まず暗さは暗し、心のみ矢竹に逸つても道はなかなか捗らぬのであつた。 稷山の戰鬪 漸くにして夜も明け放れた頃、稷山の背後の山麓に到着すると、山の上には淸軍の旗幟が大小幾旒ともなく風に靡き、附近には幔幕を張りめぐらして大に陣容を整へてゐるのが望見された。 彼は我が獨立中隊が現はれたと見るや山上から盛んに銃火を浴びせたが、我れは柳の竝んで生えてゐる堤と、樹木の茂つた前面の小高い丘とを利用し、二手に別れて展開した上、初めて銃火を切つて應戰した。 彼我の猛烈なる銃火が交換されること暫時にして漸く敵は動搖の狀を呈し、やがて陣を亂して退却を始めた。 それと見るや我が兵は直に怒濤の如く山上目蒐けて突擊に移つた。 敵軍の敗走 我が兵が山上に突進した時には、敵は長旒短旗を遺棄したまゝ潰走して雙影をも留めず、山麓の彼方を蛛蜘の子を散らすやうに列を亂して退却してゐるのが見えた。 本道から進んで來る本隊の喊聲は手に取る如く聞え、殷々たる砲聲は地軸も碎けんばかりに轟き渡り、旣に敵を破つて追擊に移つてゐることが察せられた。 中隊は直に敵を追擊するため山を馳せ下つて累々と橫はる敵の屍體を踏み越えながら息をもつかず、前進又前進、牙山の方面を指して急いだのである。 時に一天俄に搔き曇つて天地暗憺たる裏に、雷光閃き雷鳴轟いて凄まじき大雷雨となり、地面は忽ち滔々たる濁流と化し去り、何時止むべしとも思はれぬほどになつた。 治水の設備のない朝鮮の一名物たる豪雨による濁流は、道路も田畑も押流さんばかりに橫溢するのであるから、中隊は之が爲めに前進を妨げられること甚しく、志士の面々も濡れ鼠となりつゝ何時しか別れ別れとなつてしまつた。 夕頃になつてさしもの大豪雨も漸く晴れたが、兵員の疲勞も甚しいので日暮と共に前進を中止し、その夜は適當な部落を擇んで一泊し、翌朝又敵の跡を追ふて牙山に向ひ、敵の一兵にも遭はずして午後二時頃牙山に到着した。 俠徒等鶏龍山に残留諸士の安否を憂慮す 前進中散り散りになつてゐた天佑俠の同志は此處で再び落合つたが、大原は稷山の戰ひの後、發病して途中から大久保に看護されながら安城へ歸つたのであつた。 牙山に着いてから同志の者の最も懸念したのは雞籠山に殘留してゐた鈴木、內田等の身の上であつた。 牙山で敗れた淸軍は何れ公州街道によつて退却し、江原道から平壤に入つて再擧を圖るものと推測されたから迎ひに行つた白水と共に鈴木、內田、武田等が雞籠山を引揚げて來るとすれば、丁度公州附近で敗退中の淸軍と遭遇することになる。 若し不幸にして彼等が淸軍と遭遇すれば、衆寡敵せずして悲慘な運命に陷るかも知れない。 何とかして之を救ふ術はないかと一同憂色を湛へつゝ種々評議を凝らしたが、遂に何等の妙策も見出せなかつた。 この上は早く安城に歸つて出來るだけの手段を講ずる外はないといふことに決し、牙山に一泊して再び安城に取つて返した。 この時吉倉だけは新聞記者の資格があるのを利用し、軍用船に便乘して仁川に赴き、本國及び仁川京城方面の形勢を觀察するといつて獨り白石浦に向つたのである。 本間九介の雞籠山追及 却說、雞籠山の新元寺に踏み止つてゐた鈴木、內田、武田、千葉、井上、西脅の六人の許へは、其後本間九介が馳せ加つた。 本間は一行が釜山を出發する頃、京城でその計畫を知り、之に加はるべく釜山に急行したのであるけれども、其時は旣に一行の出發した後であつたので、單身其後を追ふて諸所を尋ね㢠り、遂に雞籠山まで辿り着いたのであつた。 しかも其處で鈴木等から全琫準との盟約に從ひ同志の者八名が京城方面に出發したと聞くや、滯在僅に一日の後それに加はるべく得意の健脚を利用し再びその後を追ふて出發したのである。 その後殘留の六士は先發隊からの情報を待つ間に山上の寺を去つて山麓の一寺に移り徒然の日を送りつゝあつたが、旅費も旣に大方盡きたので一同評議の末、豫て山上の寺に在つた頃寺僧が鈴木天眼所有の立派な短刀を頻りに欲しがつてゐたから、それを賣付けて旅費を造ることに決し、 鈴木天眼の易占 明日は又山に上らうとて天眼が得意の易を立てゝ占つたところ、其の日は『大凶』といふ卦を得たので更に一日延期することゝなつた、然るに內田はその大凶といふ日であるのも意に介せず、新元寺から一里許り距つた敬天といふ村落に市が立つと聞いて西脅、井上の兩人を伴ひ、何等の武器をも携へずに飄然と出掛けて行つた。 敬天では豫て東學黨に與みしてゐた日本人が多數雞籠山に籠つてゐると聞き、彼等が山から出て來たら打殺すとて待つてゐた際であつたから、內田が市場に行つて二三の品を買ひ調へ、最後に雞卵を買はうとしてゐると、忽ち多勢の者が喊聲を擧げて迫り來り、 內田敬天市場の危難 內田が氣付いて振返つた時には旣に數人の朝鮮人が井上を捕へて亂打してゐた。 內田はそれと見るや直ちに馳せ寄つて井上を捕へてゐる朝鮮人に飛び付き、襟を一絞め絞めて押し倒した。 井上はそれを機會に早くも身を隱したが、多數の朝鮮人は內田一人を目がけて襲ひ掛つた。 內田は得意の柔道によつて二三人を當て倒し、もと來た裏手の廣場に逃れ出て見ると遙か彼方に西脅が逃げて行つてゐる後姿が見えた。 しかし井上の續く姿が見えないので生死の程も氣遣はれるから、それを見付けて助けねばならぬと決心し、群がり掛る敵と亂鬪を續ける裏、敵の持つてゐた棍棒を奪ひ取り、それを振り㢠はして當るを幸ひと薙ぎ倒しつゝ頻りに四方を馳せ㢠はつて『井上、々々』と連呼したのである。 すると井上が瓜畑の中から頭部に負傷して血塗れとなつて現はれた。 內田は喜んで『井上早く俺の後ろに付いて來い、附添つて決して離れるな』と命じ、井上を背後に庇ひながら歸路を阨せる群集の中へ突き進んで力の限り奮擊した。 この鬼神の如き振舞に多勢を恃む敵も辟易して颯と道を開いたのに乘じ、脫兎の如く驅け拔け、今度は自ら殿りとなり敵の攻擊を防ぎつゝ退いたのであるが、敵の追擊は再び急となつて危險いふばかりなく、殊に曩に病氣に罹つてまだ充分體力を恢復して居らぬ內田は、先刻よりの奮鬪に著しき疲勞を來し、此儘走つて退いたのでは遂に二人とも殺される外はないと思つた。 そこで內田は自ら踏み留つて鬪ふ裏に、せめて井上だけは脫れさせようと決心し、井上に向ひ『お前は後をも見ずに一生懸命に走つて歸り、山に居る同志にこの有樣を急報してくれ、俺のことは心配せずに早く驅け出せ』といひ捨てゝ踵を返へして再び追ひ來る敵に立ち向ひ、先づ先頭に立てる朝鮮人の腦天目蒐けて打ち下し、續いて來る一人をも同樣にして昏倒させた。 更に三人目の男に飛び掛つて腦天に一擊を加へたが、これは冠を被つてゐた爲めその一擊では倒れないで却つて內田に組付いて來た。 內田は屈せず渾身の力を込めてそれを投げ飛ばしたけれど、其時は旣に精力を費し盡して疲勞の極に達してゐた。 暴徒は忽ち四方から取圍んで雨の如く石を投げ付け彼の上には恐るべき運命が一瞬の間に迫つた。 その時飛んで來た大きな石が內田の面部に命中して、流石の勇者も其處に其儘昏倒して遂に敵に縛られてしまつたのである。 暴虐なる彼等は斯くして尙ほ飽き足らず、內田の肩の邊に嚙み付いて肉を喰ひ切り、或は亂打を加ふるなど有らゆる蠻行を演じつゝ村の入口まで引摺り行き、將に慘殺しようとて、ガヤガヤと喧しく罵り騷いでゐた。 内田生命を三十貫文に買はる その時、從僧を連れて通り掛つた一僧侶があつた。 この樣を見て步み寄り、罵り騷ぐ群集を制しつゝ、人命を奪ふ罪惡の恐るべきことを諭して助命を勸め、『此者の命を助けてやるなら自分が償金として金三十貫文を與へる』といふと、今まで殺氣立つて騷いでゐた暴民等は俄に靜まり、『三十貫文を與へられるならばこゝで釋放してもよい』と承諾したのであつた。 僧侶は直ちに從僧に命じて內田の縛めを解かせ、暴民等にこの上の亂暴をせぬやうに固く戒めて、內田に早く其處を立去るやうにと促した。 正に小說にあるやうな一場面であつて、內田は思ひ設けざる僧侶の出現により、九死一生の危地を脫することを得たのである。 天佑俠徒は種々の奇蹟的事件に遭遇したが、この內田の場合などは最も不可思議なる天佑によつて一命を全ふし得たものと謂はねばならぬ。 救援の諸志内田を助け帰る 漸く立ちあがつた內田は夢に夢見る思ひで主從の僧侶に禮を述べつゝ歸途に就いたが、これを環視せる群集は敢てそれを遮らうともせず、步み去る內田の後姿を見守るのみであつた。 內田は疲憊し盡せる體を自ら勵ましつゝ漸く十數町ばかりも步んで來た時、井上の報を得て救援の爲めに馳せ來る同志の姿を認めた。 同志の者も內田の危地を脫して來たのを知るや、走り寄つて口々に『嗚呼生きてゐてくれたか』と喜びながら『實は貴公は旣に死んだものと覺悟をして我等は復讎のため村落を全滅に歸せしめてやらうと思ひ爆破の用意をするのに手間取つて遲くなつたのだが、幸ひに殺されないで此處まで遁れて來たのは天佑である』とて疵所などを改めつゝ勞はるのであつた。 さうしてゐる裏に武田範之が突然其處に卒倒してしまつた。 彼は內田の身を案じつゝ病後の身をも忘れて炎天下を疾走して來たのであるが、內田が生きて歸つたのを見ると俄かに氣が緩んで卒倒したのである。 一難去つて一難又來るといふ譯で、同志の者は重ねて武田の容體を心配したが、愚圖々々して居るべき場合でないので、千葉久之助は附近を物色して一人の朝鮮人を捉へ來り、それに武田を負はせ、鈴木天眼が內田の手を引きつゝ辛ふじて新元寺に歸着することを得た。 村民大挙来襲の報と爆裂彈 其夜村民が大擧して來襲するとの報が傳はつたので俠徒の面々は戰備を整へて待つた。 寺は一夫之を守れば萬夫も進む能はざる天險の地にあるのだから、暴民押寄せるとも恐るゝに足らず、來なば目に物見せてくれんと各々持場を定めて奮ひ立ち、內田も滿身の傷に治療を加へて元氣漸く回復し、晝間は身に寸鐵をも帶びなかつた爲め不覺を取つたが、今宵こそ復讎の機會を天が與へるものだとて、敢然第一線の任務に就いた。 寺僧は俠徒が敵を待つに當り何か函に入れた物を所持してゐるのを怪み『それは何か』と尋ね、鈴木天眼が爆裂彈だといつて說明を與へると、一度試して見せろと望んで止まぬので、時に取つての一法と考へ、數箇を固めて谷底に投げた處、轟然たる大音響を發して爆發し、背後に聳え立つ山嶽に反響して遠く敬天方面にまで響き渡つた。 寺僧の驚きは勿論であるが、翌日になつて聞くと此時敬天の暴民共は俠徒を襲擊せんとて途中まで押寄せた折柄、この大音響を聞いて膽を潰し、日本人は唯だ一人にても吾々に多數の死傷を出さしめた程であるのに、その上大砲まで持つてゐては到底勝利を得ることは出來ぬとて退却してしまつたとのことであつた。 其夜俠徒は頻りに敵の來襲を待つたが遂に押寄せる樣子もなく、その內に內田は負傷の身に疲勞を加へて遂に眠りに就いたのであるが、眼が覺めてみると、身體が痛んで少しも身動きが出來ないので、若し敵が襲來する場合如何にすべきかと切齒痛歎するのであつた。 しかし寺僧の報告によりて敬天の暴民は來襲を斷念せることが明かになり、それ以來專ら靜養に努め、一週間許りの後には庭を散步し得るまでに回復した。 武田も亦其頃には殆ど常體に復し、徒然に任せて得意の詩作などを試みてゐた。 次の太平歌は當時武田が詩腸を披いて一氣に賦した長詩である。 太平歌 太平唱來五百年 厝火積薪坐貪眠 曆數有識思鄭氏 八道無人鮮倒縣 三南時聞杜鵑叫 泰山欲呼寸膚雲 半夜聞雞誰唾手 幾人撫枕氣慨然 東學道主崔夫子 心抱濟世斥西祅 名高一代誡妄作 十萬敎徒擔一肩 難奈衆徒激時事 飛檄馳羽人馬喧 念珠在手提銃起 誓排閭闔訟民冤 全州北指朝天闕 南之嶺湖勢可連 韜略獨推全琫準 萬馬喞枚度層巓 曉霧未醒夜宴酒 一城倉皇驚響弦 軍令淸明十二幟 城下望風衆萬千 趙括乞降官屢敗 陣營講道開法筵 三南旣非賊官有 宜向京師勒鞍韉 烈焰四面萬雷逬 江華親軍捲狂瀾 爲民殺民非吾義 姑全城民且退軍 日東男兒有義膽 天佑其俠貺天權 錦囊祕得霹靂術 長袖善藏蛟虬拳 揚鞭駕洛雨暗夜 歃血廣寒月明前 斡乾轉坤在彈指 千百幻身十五員 天佑相感是天俠 扶桑遙望鷄林烟 天俠相合是天佑 淳昌將廳訂天緣 八將星羅如曜電 賓儀上壇似神仙 指天指地誓曒日 論道談兵風生壇 大道不怪行大逆 密謀先天不違天 行徇州郡張形勢 忽放奇計入京阡 汝到雲峰立汝馬 萬縣傳檄下仙寰 雞籠吾且閟我室 七初投鞭亂洛川 奇中有奇々生奇 約中有約々更堅 如去如來隱又顯 神變誰敢倪其端 天佑俠兮東學黨 動九天兮潛九泉 願共建無前鴻烈 太平長歌大朝鮮 妖雲頻りに飛ぶ 一夜月明に際し一同寢ながら月を眺めてゐると、忽ち一抹の飛雲が北方から現はれ唯ならぬ色を帶びて動くのを認めた。 內田が『鈴木君、彼の雲を見給へ、大變可怪しな雲が出て居るではないか』といふと、鈴木は『成程不思議な雲だねえ、これは面白い雲だから、夜はいかぬが明朝俺が占つて見よう』といつて寢に就いた。 元來鈴木は直覺の銳敏な性で、神祕的な洞察力を持つてゐた。 それで能く一文錢を投げて裏表になるのを見て物事を占つたが、其易斷は實に百發百中の妙を得てゐた。 鈴木は又た日蓮宗の信者であつたから、新元寺に來てからも每朝早く起きて坊主と共に讀經するのを例としてゐた。 從つて寺僧の信用が厚く大變に受けがよかつた。 鈴木の易占日淸開戰を示す 翌朝鈴木は例の如く本堂で讀經を濟ますと直ぐ部屋に歸つて來て易を立て、ジツと精神を凝らして其表を見てゐたが、暫らくして口を開き『愈々日淸戰爭が始まつたぞ。 旣に開戰したやうである。 第一に火が見える、火が起つて鬪爭が現はれて居る。 そこで京城の中に火事がある。 それは兵火が起つたのであるか、或は浪人が放火したのか何うか分らぬが、火が見えて其の後に戰爭が起つて居る。 愈々日淸開戰になつたぞ』といつた。 白水の來着と日淸両軍の形勢報告 それから二日目に白水健吉が到着して安城に在る同志の意を傳へ『今日頃は旣に日淸兩軍が衝突してゐるであらう。 僕が水原を出發する時には我が軍が旣に同地まで來てゐた。 同志の者も悉く安城に集合して諸兄の來るのを待つてゐるから早速出發することにしよう』といつた。 白水は支那軍が稷山から成歡の邊に陣を張つてゐる眞ツ唯中を首尾よく通過して此處に着いたのであつた。 一同はこれを聞いて勇み立つと共に、鈴木の易の的中したのに今更感歎したのである。 內田等一行の出發 內田の衰弱はまだ甚しいが、公州までは僅か四里許りであるから、徐行しても一日で到着することが出來るし、公州からは馬に乘つて進むことが出來るから早速出發するがよいといふので白水の到着した翌日一同は新元寺を出發して公州に向つた。 然るに內田の體力はまだ却々步行に堪へず、公州から一里許り手前で遂に宿を取ることになつた。 翌朝天明の頃、戶外が俄に騷がしくなつて朝鮮人が陸續と逃げて來るのを認め、怪んで譯を質すと、『大國兵(淸兵のこと)が多數公州に入り來つて掠奪殺戮を行ふので逃げて來た』と答へ、何れも戰々恟々たる樣子であつた。 清軍の公州襲來と危機一髪 『兵數は何れ程か』と訊いても唯だ『多數である』と答へるのみで要領を得ないが、俠徒の一行に取つてみると、前夜此處に泊つたのが仕合せで、若し公州まで達してゐたら、淸兵の殺戮に遭つてゐたのは明かである。 內田が敬天で危禍に遭つたのは今となつてみると却つて一行の危難を避ける原因となつたのであつて、內田が步けなかつた爲めに危難の淵たる公州に入らずに濟んだのである。 是れも亦天佑で、人間の運命の奇妙なるに一行は今更感歎したのであつた。 しかし、目前にはまだ危難が橫はつてゐるのであつて、これに處する方法は如何、一行は又たこの問題に就て頭を惱ました。 敵情研究と千葉の明察 鈴木天眼は先づ口を開いて『第一に硏究すべきは淸兵が公州に入り來つたのは、兩軍交戰の結果我が軍が敗れて淸兵勝に乘じ釜山に向はんとして來れるものか、それとも戰敗れて逃げ來つたものか、それを明にすることである』といつた。 すると敎導團出身で特務曹長の經歷を有する千葉久之助が流石に立派な意見を述べた。 『いや日本軍は負けてはゐない。 若し支那軍が勝つて此の方面に進軍して來たものとすれば、此處いらまでは騎兵斥候どころではない、步兵斥候が來て居らなければならぬ。 然るに何等の斥候も來ぬではないか。 斥候を先にやらずに大軍が單獨に動く筈はない。 又若し我が軍が負けたとすれば必ず高仁方面に退却するのが當然であるから、支那兵は必ずそれを追擊して同方面に向ふ筈で、この方面に來るべき理由がない。 僕が公州の方面を見るのに敵は錦江の渡し場に步哨を置いて居るのみで他の城外には一兵も見えない。 この方面に斥候が來ない點から察するに、是れは敵が旣に統制を亂してゐる證據である。 どうしても支那軍が負けて居るものと思ふ外はない』。 千葉はこれだけの意見を述べて『我々は斷然勇往直進しようぢやないか』といつた。 鈴木はこの意見を聞いて直ぐに贊成した。 武田も亦それに贊成した。 鈴木等の筆談支那敗兵を走らす 決然と前進することに定めた一行は、間道を擇んで錦江の岸に出でたが、京城方面の道に出るには是非とも之を渡らねばならなかつた。 元より渡船場で船を雇ふべくもないので、其處まで人夫に背負はせて來た荷物は、大部分人夫に與へて重要な物だけを各自が携へ、身輕になつて泳ぎ渡ることになつた。 先づ西脅榮助が試みに泳いで對岸に達し、續いて同志の者が泳ぎ渡らうとしてゐると、上流の方を朝鮮人が徒涉してゐるのを發見し、それに倣つて易々と渡河することを得たのである。 斯くして間道を辿つて進むこと三四里許りにして京城方面に通ずる本道に出たが、非常に迂㢠して來たことゝて其處はまだ公州を距る一二里の所に過ぎず、振返つて見ると公州城の聳えてゐるのが目に入つた。 斯くては尙ほ支那敗兵に出逢ふ危險があるかも知れぬと思はれたが、構はず本道を少しく進んで、とある人家に入つて休んでゐると、果して二三百名の支那兵の一隊が前面から進んで來るのを認めた。 一同は覺えず躊躇の色を浮べたが、內田は『吾等が逃げれば彼等は勝に乘じて射擊するから、寧ろ吾等から構はず突進するがよい』と主張し、鈴木も亦それに贊成して、皆な斬り死にの覺悟を定め、堂々と前進して行くと、支那兵は日本人の來るのを見るや、早速旗竿を地上に倒し、足を停めて整列し、毫も戰意を有せざる風を示した。 その樣子から察して確にか敗兵であることが判かつたので、鈴木、武田の二人が進んで隊長と筆談を試み『我が日本兵はこの附近に多數在るも、汝等敗兵は旣に戰鬪力無きものと認め、見逃がしてやる故速に立去るべし』と書いて示した處、彼等は『多謝々々』と繰返しつゝ驅け足で逃げて行つた。 千葉の觀察の通り我軍が勝つたことは之によつて愈々確かとなり、一同は顔を見合はせて『我々も虎口を遁れたが、彼等も虎口を遁がれた心地がしたらう』といつて大笑ひをしたのであつた。 それより暫く進むと又一隊の支那兵に遭つたが、前のやうにして遣り過ごしたのみならず、その時は敗兵から一頭の馬を取上げて、甚しく疲勞してゐる內田をそれに乘せて步行の苦痛を除いたのである。 進むに從つて支那の敗兵に遭遇すること數回に及んだが、彼等は何れも恐れて逃げ去るか、又は降服の態度を示すのみであつたから敗兵に關する不安は全く去つた。 一行の飢餓と支那兵の狼籍の跡 唯だ一行を苦しめたのは食料を得ることの困難であつた點で、沿道の村民は皆遁竄してゐて隻影を留めず、畠の作物は支那兵が旣に荒し盡して飢餓を慰めるに足るものは一物もなく、纔かに一度玉蜀黍のまだ實つてゐないのを發見し、それを嚙んで一時の飢を慰めたのみであつた。 一行は斯の如き艱難の旅を續けた後、漸く安城に達して先發隊の同志と落合ふことを得たのである。 安城到着と祝盃 同志の者は互ひに無事を喜び、祝盃を擧げつゝ各自の經驗せる所を語り合ひ、談笑盡くる所を知らなかつたが、年來の宿望たる支那の勢力を朝鮮から驅逐せんとする目的は日淸の開戰によつて旣に達せられ、東亞統一の大業に向つて一指を染められた譯であるから、更に進んで朝鮮の改革を行はねばならぬ。 しかもそれは戰爭の進展と伴はねばならぬものであるから、之より京城に入つて內外の形勢を視察し、將來の方針を定むべきであるといふことに意見一致し、安城の金氏邸に一泊した後、本間九介だけを後始末の爲めに留めて京城に向つた。 天佑俠一行の目的達成と形勢觀望の必要 しかし前に田中、大原の二人が京城に入つた際、我が官憲の注意の的となつたことであるから、一同が今打揃つて京城に入るのは甚だ危險と認め、一先づ京城々外漢江セブンゴの渡船場の上手にある閔家の別莊に入つて宿泊し、使を以て京城にある佃信夫に來着を報じた。 佃信夫の来訪と内外情勢の説明 佃は早速其處へ來訪して、一同の無事を祝し、天佑俠徒が朝鮮內地に進入して以後の政界の形勢、日淸開戰に至るまでの經過等を說明し、且つ天佑俠の行動は國民の血を沸かせ、政府をして征淸の大決心をなさしむるに與つて力ありしことを述べて深くその勞を犒つた。 そして佃は、政府は俠徒の功勞の大なるものあるを忘れ、却つて俠徒を檢擧すべく物色頗る嚴なる有樣であるから充分の警戒を要する旨を注意した。 嗚呼愛國の至情に驅られて萬死の境に奮鬪し來りし志士が、今や却つて國家の罪人を以て待たれんとす。 洵に心無き限りといはねばならぬが、 俠徒の京進入とお尋ね者 俯仰天地に愧づる所なき俠徒等はそんなことには拘泥せず、別れ別れに官憲の目を避けつゝ京城に入つたのである。 京城では各所に分宿し、互ひに連絡を取つて結束を保つと共に他の有志家とも密かに往來して情報を交換し、官憲をして乘ずる所なからしめた。 第二の天佑俠計畫 天佑俠が朝鮮に渡つた頃、頭山滿や平岡浩太郞等は開戰が遲れる場合は更に後結を 繰出す手筈を謞じ、その計畫には、荒尾精、高橋健三、陸實、古莊嘉門、田中賢道、 柴四朗、國友重章、福本誠等が參加し玄洋社の志士二百餘名を以て一隊を組織し、荒 尾精が總大將となつて行くことになつてゐた。 開戰が豫定通りに進んだ爲めこれは結 局計畫だけに終つたが、當時荒尾精は長白山邊に新國家を建設しようといふやうな別 計畫を抱いてゐて、その國家の組織や統治のことなどを書いたものが今に殘つてゐる。 後に荒尾が福本日南の宅を訪ねた時、日南は不在だつたが、夫人に逢つて自分の頭を 撫でながら『あの時は馬鹿を見ました』といつて笑つて行つたといふことである。

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