○東學黨の根據
這回變亂の根元地たる古阜郡は二十八村落より成り土地極めて
豐饒にして農産物に富み仁川港及び釜山港との關係に至ては
極めて薄き土地抦なれども朝鮮八道中にありては又樞要なる
箇所なりとす而して東學黨の金城鐵壁として恃て以て根據と
するの地は古阜と全州との中間にある白山なりといふ此の山
の高さ凡そ二十五間にして老松疎立し三面は絶壁の如くにして
人の容易く近づく能はざるの處なり一面の逕路を僅に攀ぢ登
れば內に深溪ありて能く數千の人を潛ましむるに足るといふ
又數日前迄に全羅道に於ける東學黨の占領せし地區は凡そ左
の如くにして又其所には夥多の兵員を以て之を嚴守すといふ
羅州 守兵八百餘人 (京城を距る六十六里二十四丁)
光陽 同 千百餘人 (同 七十二里十六丁)
扶安 同 三百余人 (同 五十里二十四丁)
興德 同 千○四十余人 (同 五十六里)
高瀨 同 六百余人 (同 五十六里三十二丁)
釜山 同 八百余人 (同 四十里)
又首將及副將の兵營は寶城近傍にありて總勢凡そ一萬六七百
人にして尙日日增加の摸樣なりと云ふ