七 三崎山
日淸戰を交ふるや、玄洋社員にして軍に從ふもの鮮からず、而も亦軍外軍に從
ひ、或は軍事探偵に、或は馬賊の群に投じ、其選む所により奇功を樹てたるもの多
し。 金州城外に悲壯の死を遂げたる山崎羔三郞も玄洋社の一員たり。
山崎人となり磊落剛膽、而かも情誼に厚く、能く人をして推服せしむ、夙に心を
東亞の經綸に傾け、明治十七年末廣重恭等の東洋學館を上海に設立するや、頭山
平岡に選ばれ同志の士十餘名と與に此に遊學し、後荒尾の人を各地に派し、淸國
事情を探究せしむるに當り、單身雲貴兩廣の山川を蹈破し、審に其の險夷を察し
精査至らざるなし、貿易硏究所の興るに當り、荒尾を幇けて其經營に努む、後ち鷄
林の風雲急なるを見て韓半島に至り、淸軍衙門に就き『予は神戶に在りし淸商な
り、日淸事急なるを見て歸國せんとして此地に來る、願くは國家の爲め盡すあら
せよ』と、淸兵上長山崎を見て、好漢日語を巧みにす、以て之を用ふ可しと、乃ち牙山
兵營に入る事を得たり。
山崎苦力の間に交り具に營內の情形を探り、城兵の異動、銃砲の布置、淸兵の計
謀等を明にし一知一報して以て我軍をして敵情を知ること、掌を指すが如くな
らしめ、終に我軍進擊の前日を以て竊に出でゝ自ら之を迎へ、一擧にして該營を
拔かしむ、想ふに豐島牙山の二捷は全軍の士氣を振はしめ、我軍全局の大捷に關
する所大なるものな▣、果して然らば山崎が牙山に於ける功績實に寡少ならず
と謂ふべし、是より後、山崎第九師團司令部附通譯となり數數奇功あり、一旦廣島
に歸還す、玄洋社員平岡等數十名之を迎へて、一夜大に宴を張る、山崎の意氣禹域
を呑むの槪を示す、鐘崎、藤崎大態鵬、猪田正吉、向野堅一等と與に特別の任務に當
り、旅順方面の敵情を偵察せむとして、花園口に上陸し偵察に從ふ、越えて一日不
幸碧流河上に於て、鐘崎、藤崎と共に淸兵に捕へらる。
鐘崎は、筑後の人、性剛毅機才に富み義俠を喜ぶ、貿易硏究所に學ぶこと二年、後
ち北上して芝罘に出で特別の任務に從事す。 朝鮮東學黨の亂起るや、具に辛
苦を嘗めて山海關に出で、敵情を探り、尋で上海を經て廣島に歸來し、大本營に
復命す。 大元帥陛下其殊勳を思召され、特に拜謁の恩命を下し賜ふ、次で第二
軍に從ひ花園口に上陸し、路を貔子窩街道方面に向ひ、敵兵に捕へらる。
藤崎は、鹿兒島縣の人、豁達倜儻、日淸貿易硏究所に遊ぶ、後ち大態鵬、向野堅一、楠
內友次郞、福原林平、景山長次郞等の諸士と共に國事に盡さんと欲し、大に敵情
を探り、廣島に歸り、大本營に召されて、陸軍通譯官を拜し、有栖川參謀總長宮殿
下に拜謁するの光榮を擔ふ、十月十六日山崎、鐘崎等五氏と俱に第二軍に從ひ
て廣島を發す、二十三日花園口に上陸し、鐘崎と與に和尙島及び小平島を偵察
せんとして、深く敵地に入り碧流河畔に捕へらる。
三士前後して金州副都統衙門に送られ、尋で海防同知の獄に繫がる、肉を劈き
骨を削る拷問の酷も、交交迫る飢寒の苦も、三烈士を屈するに足らず、三士は纔に
其姓名を告ぐるの外他を謂はず、明治二十七年十月二十九日、終に金州城西門外
の刑場に忠魂永く護國の鬼と化す、時に山崎春秋三十一、鐘崎二十有六、藤崎二十
有三なり、三士刑に就かんとするや、淸の禮によりて西方に向はしめんとす、山崎
之を肯ぜず、東方に向ひ遙に我 天皇陛下を拜せんとし、刑吏の爲に一刀を其の
前額に加へらる、碧血淋漓たり、而も終に東嚮して從容瞑目せり。
越えて二十八年二月、三士と行を共にし、萬死に一生を得て功を完うしたる向
野堅一及通譯官澤本良臣等三士の事蹟を審にし、埋骨の地を探り、遺骸を斂め、首
級を求めて厚く之を葬るあり、後ち根津一三士の遺骸を金州城北門外崔家屯の
一丘上に移し、名けて三崎山と稱し、別に三基の碑を建て大日本志士山崎羔三郞
君捨生取義之碑と銘じ、他の二基亦之に傚ふ。
然るに日本に對する遼東半島の割讓は露佛獨が淸國に勢力を伸張せんとす
るものに支障する所甚だし、乃ち四月二十三日に至り、日本駐在露公使ヒトロヴテ
ー、同じく獨公使ゲートシュミツト、同じく佛國アルマン相前後して我外務省を訪
ひ、日本が遼東半島を永久に占領するは東洋の平和に害ある旨を以てしたり。
玆に於て我國は廣島行在所に御前會議を開き、一たび露國に再考を求むると同
時に英、米、伊三國の援助を乞ふ、伊國之れに應じたるも他の二國應ぜず、五月八日
批准交換の終りし翌翌日五月十日、遼東還附に關する詔勅發せられたり。
詔勅に宣く、
『朕嚮に淸國皇帝の請に依り全權辨理大臣を命じ、其の簡派する所の使臣と會
商し、兩國媾和の條約を訂結せしめたり。
然るに露西亞、獨逸兩帝國、及法郞西共和國の政府は、日本帝國が遼東半島の讓
地を永久所領とするを以て、東洋永遠の平和に利あらすと爲し、交交 朕か政
府に慫慂するに、其の地域の保有を永久にする勿らんことを以てしたり。
顧ふに 朕が恒に平和に眷眷たるを以てして、竟に淸國と兵を交ふるに至り
しもの、洵に東洋の平和をして、永遠に鞏固ならしめんとするの目的に外なら
す、而して三國政府の友誼を以て切偲する所、其の意亦玆に存す、 朕平和の爲
に計る素より之を容るゝに吝ならさるのみならす、更に事端を滋し、時局を艱
し、治平の回復を遲滯せしめ、以て民生の疾を釀し、國運の伸長を沮むは、眞に
朕か意に非す、且淸國は媾和條約の訂結に依り、旣に渝盟を悔ゆるの誠を致し、
我か交戰の理由及ひ目的をして、天下に炳焉ならしむ、今に於て、大局に顧み、寬
洪以て事を處するも、帝國の光榮と、威嚴とに於て毁損する所あるを見す、 朕
乃ち、支那の忠言を容れ、 朕か政府に命して、三國政府に照覆するに其の意を
以てせしめたり、若し夫れ、半島讓地の還附に關する一切の措置は、 朕特に政
府をして、淸國政府と商定する所あらしめんとす、今や媾和條約、旣に批准交換
を了し、兩國和親舊に復し、局外の列國亦斯に友誼の厚を加ふ、百僚臣庶、其れ能
く 朕か意を體し、深く時勢の大局に視微を愼み、漸を戒め、邦家の大計を誤る
こと勿きを期せよ。』
盡忠至誠の將士が血を以て贏ち得たる半島は空しく彼碧眼奴の脅迫に遭ふ
て、遂に之を淸に還附せざる可らざるに至りしなり、嗚呼之の詔勅を讀む者、誰か
憤然痛恨長大息せざらんと欲するも、豈夫れ得可けんや、乃ち我政府遼東半島を
淸國に還附す、玆に於て我軍此地を撤退するに當り三士の碑石と遺骨を倂せて
內地に齎し、東京高輪泉岳寺に改葬せり、然るに天運我に幸して日露戰役の後ち
遼東再び、我有に歸するに及び、三崎山遺跡保存會を設立し、記念碑を建つ、金州城
外三崎山上の英魂靜に此地を護りて、殉忠報國の芳名永く盡きず。 嗚呼誰か徙
に秋雨に恨み春風に傷まんや。
乃木希典
山川草木轉荒涼 十里風腥新戰揚
征馬不前人不語 金州城外立斜陽