닫기

연락처
기념재단
TEL. 063-530-9400
박물관
TEL. 063-530-9405
기념관
TEL. 063-530-9451
Fax.
063-538-2893
E-mail.
1894@1894.or.kr

동학농민혁명기념재단 사료 아카이브 로고

SITEMAP 전체메뉴

1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
玄洋社社史 현양사사사
  • 기사명
    1) 天佑俠の活動
  • 이미지
    prd_0141_036 ~ prd_0141_051 (420 ~ 435쪽) 이미지
  • 날짜
일러두기

第二十八 日淸戰爭

一 天佑俠の活動

天佑俠の勇士が東學黨本部に黨首全琫準を訪ふの夜飛報あり。 官兵四路よ
り來り東黨を攻めんとし、江華兵五百最新モーゼル六連銃を携へ餘勢實に五千
に及ぶと、東黨之に應戰せんと欲し、新に迎ふる所の日東志士天佑俠の面面と軍
議を謀り其部署を定む。

本營 總督 全琫準
軍師 田中侍郞 鈴木天眼 吉倉汪聖
遊擊軍 兵七十人 韓將 金氏
大將 內田 甲(良平) 副將 西脅榮助
東面軍 兵一百人 韓將 斐氏 全氏
大將 時澤右一 副將 井上藤三郞 西面軍 兵一百人 韓將 崔氏 安氏
大將 千葉久之助 副將 大久保肇
南面軍 兵一百人 韓將 李氏 超氏
大將 白水健吉 副將 日下寅吉
北面軍 兵一百人 韓將 朴氏 鄭氏
大將 大原義剛
輜重軍 兵五十人
大將 大崎正吉
赤十字軍 兵三十人
大將 武田範之

更に方略を定め又軍議旣に成り、各將皆兵甲して馬を陣頭に進む、全總督と三軍
師とは殿頭に立ち、微笑を含みて之を見送れり、衆人旣に軍門を出で去れば、各面
の軍隊忽然として玆に部署せられ、北する者、南する者、東する者、颯颯たる曉風の
中に、旗影飜飜、步調整整として行陣の狀、宛然長蛇の原頭に輕驅するが如し。

これより天佑俠士韓兵を率ゐ、東西南北竝に遊擊の五軍三晝夜に涉り、各地に轉
戰到る處日東男兒の意氣を示し、官兵の膽を寒からしむるものあり。 然れども
未だ完く官兵を擊退せしむるに至らず、一夜天佑俠士軍議を開き夜襲を企つ、「天
佑俠」に當時の狀を敍して曰く、

東面軍の進退

大將時澤右一は副將井上藤三郞及び韓將二名と共に兵百名を率ゐ、先づ進んで雲岩
江邊に至る、高堤に登つて遙に前岸を望めば、南原以西數里の地、悉く京軍の掌中に落
ち、丘林となく、山野となく、旗風に棚引き、郊頭原上、砂塵天に漲り、喊聲地に振ふて軍容
藉に其壯を極めたり、井上乃ち時澤に謀つて曰く、敵旣に正正堂堂、大路より驀地に來
つて我に迫らんとす、於是一たび其銳を挫かずんば淳昌の本營も太だ危し、我れ乞ふ
兵三十を藉り、上流より潛に江を渡り、橫まに敵を打て進擊の力を牽制し君をして徐
ろに正面より敵を破るの地を爲さしめん、君以て如何となすと、時澤曰く、君の策頗る
妙なりと、乃ち之に兵三十を與ふ、井上兵を得て、卽時令を發し、堤下より身を潛めて走
せ、江畔柳樹陰翳の所に至り、徐徐堤に上り、前岸を窺ひ、其異狀なきを見るに及んで、忽
ち流を橫ぎり、又徐徐として前堤に攀ぢ、堤上柳樹の間より忍びやかに敵營に近かん
とす、幸なる哉、敵は其大兵を憑みて哨兵の警戒、今や甚だ乏し、井上乃ち號令して急に 陰樹の間より銃を竝べて敵軍を直射せしむ、敵事の不意に起りたるに愕き、陣中狼狽
の狀極めて甚し、此時時澤亦井上の進擊を察し、直に軍を進め逸足して流を亂る、敵益
益周章、前衛の兵悉く破れ、先を爭ふて南原路に退かんとす、井上、時澤攻擊益益力め、終
に悉く江岸の敵を掃蕩して赤城津を奪ひ、要所に據つて暫く戰裝を解き、村酒を徵發
して一軍を犒ふ、一軍旣に初軍の勝を占めて驕ること甚し、皆曰ふ京軍何者ぞ敢て蟷
螂の斧を龍車に試みんとするやと、井上衆心の驕氣に過ぎたるを憂ひ、叱咜して之を
戒めんとす、衆顧みず、蓋し井上の年少を見て之を侮るなり、時澤亦官兵の與し易きを
思ふて强ひて衆の懈心を咎めず、井上益益憂ひ、獨り、陣前の高丘に上つて敵の動靜を
窺はんとす、果然砂煙の東方より西方に向ひ、風に從つて飛動し、次第に我陣營に近き
來らんとするあり、唯人影は茫茫として砂煙に藪はれて見えず、井上倉皇丘より飛下
り、直に時澤の在る所に至り、叫んで曰く敵兵旣に咫尺の間に迫る、君何ぞ速に防守の
令を發せざると、時澤は呑氣の性、之を聞きて以て戲言となし笑つて曰く、君戲るゝを
止めて我と共に且つ一盃を擧げよ。

井上は眞摯、怒氣忽ち心頭より發し、聲を激し大喝して曰く、大丈夫何ぞ戲言あ
らん、君乞ふ自ら陣外に到り見よと、時澤井上の滿面朱を濺ぐを看、意中始めて
不安を懷き、韓將斐氏と相提へて陣外に出でんと欲す、忽ち流丸の三三五五聲
を爲して頭上を掠むるあり、時澤周章首を縮め、身を轉して陣に入り、大に呼ん で曰く、驚く勿れ、汝等靜かに且つ速かに銃を執つて整列せよと、一陣事の不意
に出でたるを以て其何の故たるを知らず、狼狽銃を求めんとして相騷擾し、加
ふるに醉氣未だ全く醒めず、起たんと欲して且つ倒れ、顚轉して走る、此時敵兵
旣に五百步の中に在り、飛丸雨の如く漸く陣前に集り注ぐ、是に至りて陣中の
狼狽愈愈其度を高め、復た陣頭に立つて應戰の急務に就かんと欲する者なし
韓將斐全の二氏此の狀を見、大に怒つて曰く、汝等何爲る者ぞ、敢て倭客の前に斯の如
き醜態を演ずるや、我徒旣に生民の爲めに一身を以て犧牲となす、進んで敵を破る能
はずんは、何の面目あつてか、歸つて復た江東の父兄に見えん、名を惜む者は宜く我に
從つて來るべしと、奮然馬首を東に向け、誇り立つたる敵の中堅を望んで一氣に突貫
す、其健鬪苦戰の狀、阿修羅王の荒れ廻るよりも猛烈なり、衆兵亦た之に激せられ、各各
矢石を冒して進む、軍氣是に於て新に振ひ、井上時澤左右より之を指揮し、再び敵の前
衛を擊破して一小丘下に防備陣地を布かんと欲す、何ぞ圖らん、旣に潰走せりと見え
たる敵は、更に幾倍の荒手を添へて突然丘後より現はれ出で、地勢の勝を利し、直下し
て我に殺到し來り、呼吸も吻がせず、攻め立て驅け惱まさんとは、我軍此不意打に逢ふ
て更に策の出づべき莫し、士氣自ら沮喪し、旗色甚だ亂る、敵益益勢に乘じて猛進し、我
軍之が爲め皆江中に追ひ落され、負傷極めて多し、漸くにして危急を脫れ、退きて柯王
里に據るを得たり、力鬪して辛く敵の追擊を拒む。

南面軍の進退

大將白水健吉、副將日下寅吉は韓將朴鄭の二氏及び兵一百人を率ゐ、拂曉急に走せて
牛峙の要所に至る、峙畔未だ一京兵の來り屯する莫し、衆天を仰ぎて其先制の地を與
へたるを感謝し、直に峙下に就て地勢をトし地雷を沼道各處に伏せ、徐に敵の到るを
待つ、暫くして前程を望めば、各色の旗幟煙樹の間に飜飛として次第に我に來り迫ら
んとする者の如し、白水乃ち令を傳へ、妄語を戒め、寂然無人の態を裝ひ、突如として敵
の不意を襲ふべき用意を整へしむ、旣にして敵兵衆を擧げて峙下に來り屯し、將に峙
に攀ぢんとして、先づ伏兵の有無を探らんとする者の如し、此時日下急に數兵を遣は
し火を地雷に導かしむ、忽然として百千の大雷地底より爆發し、轟然耳を貫き、天地を
劈て分斷たらしめんとす、千餘の京軍は錯愕周章を極め、叫喚煩悶して盡く䑃䑃たる
硝煙の中に在り、白水等機に乘じ兵を悉して峙上より直下し、四面より包んで之を鏖
殺せんとす、京兵一望、膽喪し、心消え、銃を捨て、服を脫して走る、白水復た長驅、行行敵の
傷を救ひ、降を容れ、終に玉果縣城に進擊し、兵を交へずして其官衙を占領し、之に據つ
て悠然他面の戰報を待つ。

西面軍の進退

大將千葉久之助、副將大久保肇、俱に是れ沈勇の士、千葉は特に用兵の術に老す、乃ち擇
んで西軍の强敵に當らしめたるもの、於是乎二人は韓將崔安の二氏、及び兵一百人を
率ゐ、曉霧を冒して白山里を飛過し、午前五時進んで防築峴の要害を占領せんとす、不 幸にして潭陽の京軍五分前旣に峴上に占據し、專ら天嶮を賴んで邀擊の設備を速成
せるを見る、我豫定の計畫は玆に先づ第一着を誤りたり、千葉、大久保恨悔禁ぜず、憤激
の餘、終に自ら刀を拔きて前頭に立ち、衆兵魚串之に從つて坂路を攀登し、力攻して强
ひて攻め破らんと欲し、大に苦鬪す、敵兵下瞰、木石を投ち彈丸を直射し、頑强に抗抵す
ること多時、容易に其嶮を奪ふべからず、千葉憤悔措く能はず、益苦鬪して敵に當る、我
兵之が爲に傷く者殆ど算なし、而して遊擊軍の動靜未だ測り知るべからず、千葉終に
軍の爲すべからざるを察し、心ならずも背進の令を傳へ、死を決して白山里に據守す。

遊擊軍の進退

大將大原義剛は極めて剛毅の士、正正堂堂敵の中軍と接戰せんことを期し、獨
身北面の將任たらんことを望む、乃ち韓將、李超の二氏及び兵一百を率ゐ、拂曉
全州路を望んで發程す、行きて雙岩里に達すれども未だ一兵の來り迫るもの
なし、乃ち前衛を進めて岩峙村に入る、京兵尙ほ未だ來らざる也、於是壘を秋月
山下に築き、高丘に據て敵を迎ふるの策を建て、雙岩里の兵を擧て之に合せし
む、山霧旣に吹き散じて朝暾漸く暉暉たり、壘頭眥を決して前面を望めば、長橋
里、雲岩店、獨山洞の連邑、雲岩河一帶の平原は、何時とも知らず京兵の充滿する
所となり、山も川も皆進擊喇叭の一曲に震動し、土民等の擔荷して侵掠を遁れ んとするの狀歷歷指點すべし、大原哄然として破笑し、壘を下りて、韓將を顧み
て、靜に謂て曰く、大丈夫畢世快心の時今に在り、公等速に壘畔に配兵して我號
令の發するを竢てと、韓將乃ち唯唯として退き、施設總て受命の如くして京兵
の來り迫るに備ふ、警衛は此の如くにして漸く其緖に就けり、此時恰も好し、京
軍徐徐行進を始め、一隊二千餘名、獨山洞より雲岩江を亂り、肅肅然として長財
洞に入り來る、其勢長江堤を決して奔るが如く、草も木も皆一樣に風靡して、當
面殆んど抗拒すべからざる者に似たり、大將大原莞爾として久しく壘頭に在
り、乃ち手を擧げて急に兩韓將を靡き、速に其側に到らしむ、韓將到れば大原耳
を屬して密かに吟咐する所あり、韓將唯唯として退き、三四十卒を率ゐ、突如と
して壘の一方より下り、京軍の前衛に向つて急襲を試みんとす、京軍騷擾、隊を
亂して防戰し、韓將亦た右奔左走して挑戰の狀をなす、暫くして我軍退きて悉
く壘中に入れば、京軍大に之を追跡し、輕進して壘下に蟻集する者正に三百、大
原之を見て大喝一齊、射擊の號令を發す、一百の黨軍聲に應じて急に銃を執り、
速射約五分間、其の奇、驟雨の忽ち至るが如く、硝煙䑃䑃、壘を蔽ふて暗澹たる者 久し、硝煙爰に散ずれば壘下一面京兵の算を亂して斃るゝもの累累たり、而し
て全衆は旣に全く潰散して纔かに本隊と共に在るを見る、第一戰其勝利は先
づ黨軍に歸したりと雖も、衆寡勢を異にするもの殊に甚し、是に於て大原深く
慮り、容易に韓將の出戰を許さず、一軍鳴を靜めて壘壁を固守し、暫く敵の動靜
を窺ふの姿勢を取る。

進擊軍の進退

內田は天佑俠中の急先鋒、危を冒し難を凌ぎ、四方に轉戰して虛を衝き、不意を
襲ふには最も適任たり、是に於て乎、遊擊軍の大將として潭陽攻擊の任を帶び
更に敵の背後に出で、千葉と合擊して西方又京軍を鏖殺せんとす、副將西脅榮
助は機敏健脚、韓語に巧みなる者、而して內田の率ゆる兵は、韓將金氏外七十人
なり(中略)

內田等曲江の上流に出で衆を激勵して急驅し、直に潭陽城下に達す、乃ち正門より驀
入して其官營を襲ふ、時に營兵多く出で、防築峴の戰に赴き、城內空虛殘留する者百に
滿たず、內田突進營に入つて大喝すれば、京兵萎縮銃を捨てゝ多く降を乞ふ、蓋し變不 測に起つて敵の多寡を詳にせざれば也、內田悉く其降兵を收め、之を先驅として急遽
防築峴に向ひ、京軍合擊の前約を果さんと欲す。

第一戰の全局觀

內田の遊擊隊と、白水の南面軍とは、漸く勝利を博したるが如きも、千葉の西面軍は敵
の爲めに防築の嶮要を先制ぜられて、進攻其機を失ひ、時澤の東面軍は、輕輕兵を進め
て戰頻りに利あらず、大原の北面軍は優勢の敵の包圍する所となりて、孤疊を堅守す
るに過ぎず、黨軍大體の戰況は未だ全敗には至らざるも、決して全勝とは稱すべから
ざる也、況んや本營に於ては內田が道に迷ふてより遊擊軍の動靜を詳にせず或は其
鄧艾的陣法を以て、必ず快捷を博すべきを信ずるも時に、或は全軍覆沒の慘に逢へる
に非るやを疑ふ者あり、內田が戰▣の如何は實に全軍の死命に關するもの少なから
ず、敗か勝か、其消息固より究めざるべからざるも各面刻下の危急は力を他に分つの
餘裕なし、乃ち急に白水の軍を玉果より招還し、之をして東面軍に赴援せしめ、而て後
別に遊擊軍の動靜を探らしむるに決す。

第二日早朝の東面軍

大將時澤意氣甚だ揚らず、井上亦た激鬪に勞し、韓將裴氏負傷して東面の軍終に支へ
難く、漸く柯王里を退却せんとす、形勢窮塞復た奈何ともす可らざるに似たり、危急の
報直に本營に到る、全琫準乃ち三軍師と熟議し、終に吉倉をして逞兵二十人を率ゐて 救援に赴かしむ、吉倉卽刻兵を提げて電馳柯王里に到り、先づ其地理を察し竊に樹陰
に據り、不意に吶喊して京軍の橫面に衝突せんと欲す、京軍大に驚き、以爲く敵の援軍
大に至ると、乃ち急に陣を去つて少しく其兵を退く、是に於て我軍復た振ひ、刻前の敗
形は俄に變じ、來つて却て攻勢を取るに至る、時に南面軍の白水、王果より雲岩江に沿
ふて遡り、急に赤城津の背後に現はれ、頻に敵の走路を絶たんと欲す、敵頗る驚き屢後
方を顧みて士心一ならず、吉倉兵機に乘じて益樹陰より狙擊し、井上時澤の軍正面よ
り猛進して前日の敗辱を雪がんとす、白水亦次第に敵の後軍に迫り、三面合擊勢甚だ
壯なり、京軍終に拒戰するに耐へず、陣形大に亂れ、次第に潰敗して北西に向つて走る。

第二日早朝の西面軍

嶮要敵の據る所となりて、千葉の軍、容易に進む能はず、狹擊を約せる遊擊軍は消息殆
んど絶えて成敗測るべからざるに似たり、本營の軍議乃ち田中をして親兵二十餘を
率ゐ、走せて千葉に協力せしむ、千葉、大久保迎へて大に悅び、協議の極復た兵を防策峴
麓に進め殊死して大に戰ふ、恰も好し、內田の遊擊軍、此時降兵を驅つて背面より鼓燥
して殺到す、京軍是に至つて糧路全く絶え、陣中頗る騷ぎ、頻に走路を求めんと欲する
者の如し、千葉、田中、機を察しで益益進擊に努め、內田亦頗る健鬪して突貫を行ふ者幾
回京軍竟に自ら支へず、參參伍伍相伴ひ相助け、秋月山脈に從つて逸奔す。

第二日早朝の北面軍

北面軍は京軍と相對戰せる者、敵の我に優る正に二三十倍、其容易に勝つべからざる は理の當然たり、報の本營に達するや、鈴木亦親兵二十五名を提げて赴き救ふ、於是軍
氣大に振ひ、將に敵を擊破せんとするもの數次、此時不幸にして一隊の精兵俄かに東
南面より顯はれ來り、敵の爲めに大に力を添ふ、旣にして東面京軍の敗兵亦次第に之
に加はるあり、相合して大原鈴木の軍を包擊す、我軍二隊に岐れ、防戰甚だ力むと雖も
衆寡固より敵すべからず、疊の一角終に破れ、漸次追れて秋月山の高所に移り、地勢の
利に據つて僅かに陷落の難を脫るゝものゝ如し、然るに何ぞ圖らん、此地亦た西面京
軍の敗卒、突如として山巓より俯瞰し低きに就きて我を攻むるあらんとは、我軍於是
全く重圍に陷り、復た一人の生還するものなきに至らんとするが如し、是より先き武
田大和尙は、自ら淳昌の本營に留り、赤十字隊を指揮して、諸路死傷者の治療を爲せり
後ち北方京兵の優勢なるを聞くや、進んで雙岩里に至り、萬一の變に備へんとす、而し
て今や危急寸刻に迫るの報を得たり、大和尙奮然蹶起、直に附近の農具を徵發し、之を
三十名の兵士に分與し、一種の鋤戟隊を編成して秋月山下に急驅す、蓋し赤十字隊も
と兵器なし、卽ち止むを得ず農具を振つて、其難に赴かんと欲する者、自身は乃ち一尺
四五寸の戒刀を揮ひ、而して敏活猛劇に部下を指揮する處、宛然たる古上杉霜臺の風
采あり、漸く進んで戰地に近づけば夕陽將に西天に沒せんとして暮靄蒼然、遠きより
來る、敵に我兵の多寡を知しめざる是より好時機なるは無し、和尙號令一下、吶喊して
敵陣に殺奔し、左衝右突、忽ち一條の血路を開き、突出一回又更に突入す、山上の我軍之
に依つて大に氣力を恢復し、奮鬪力戰して後ち始めて蘇生の地を成せり、唯夫れ敵勢 尙ほ未だ十重二十重の包圍を解かず、之が爲め苦戰苦鬪幾回に及ぶと雖も容易に圍
を衝て山を下り、山下の我軍に合するを得ざるものあり、山上の軍漸くにして氣力將
に枯渴するに唾んとす、幸なる哉此危機一髮の際吉倉、時澤、井上の一軍逸足空を飛ん
で東面より來り救ひ爰に武田の隊と協同力を振ひ、終に大原、鈴木の一軍を山上より
擁護し來り漸く雙岩里に向つて退き去る、其途內田隊、千葉隊、大崎隊等來り會し相提
へて雙岩里の黨中に歸着し、半夜燈前盃を擧げて戰勞を慰め、更に大に今後の軍議を
擬す所あらんとす。

第三戰の夜襲京軍を粉虀す

軍議は爰に再び開かれたり、然れども此夜の會議は前夜と異にして、復た一個の韓人
を交へず、座に連るものは唯僅かに天佑俠の同志十四名のみ、議は遂に夜襲に決し卽
夜之を實行せんとす、夜襲の手段は、所謂る切入りにして、十四名手に爆裂彈を携へ、二
三個宛左右前後に相別れ、各所より敵陣に侵入して以て、其荒膽を取挫ぎ、及ぶべくん
ば簡單なる方法を以て、全軍を潰散せしめ、一擧して日本人の手竝を敵味方に知らし
むるに在り、評定旣に一決す、一同乃ち旨を全總督に報じ、卽時準備の爆彈を取つて起
ち、潛かに敵の哨兵線を通過し、徐徐として各方より次第に敵の本營に近づき進む、發
するに臨み一同約を立て、曰く、先登第一陣に入る者先づ彈を投じ、其轟響を以て各人
に對する合圖とせん、各人之を聞かば直に一齊相投じ、以て聲援を計り、急驅して突貫
を試むべしと、大崎、千葉、田中先登第一たり、乃ち皆約の如く彈を投じ、諸人相次で之に 傚ふ、總て期せる所の如し、爆聲喊聲、是に於て轟轟反響し、ともに天地を震撼す、此時京
軍槪ね晝戰の勞に耐へず、陣中に披藉して酣睡を貪り、爆聲の耳を劈くに及び暗中敵
の多寡を察するを得ず、狼狽して相蹂り、戰はんと欲すれども策の出づる所なし、十四
人突擊縱橫、無人の境を行くが如く、終に敵の全陣を破壞し盡す、就中最も夥しく敵人
を屠りたるは內田急先鋒にして、內田と相竝び劇く敵を殺戮して諸人を驚倒せしめ
たるは、年少の井上なり、敢て專ら戰鬪を好むといふに非ず、慰みがてら出合頭に敵を
切りさいなみたるは鈴木、吉倉にして、最も周到の戰鬪を爲したる者は、大原、大崎、千葉
武田、白水、大久保五六人なり、吶喊猛烈、一騎當千の威勢を示したる者は田中、日下を推
すべく、左手ビストルを用ゐ、右手刀を携へたる割に、多數の敵を斃し得ざりし者は時
澤右一なり、斯の如くして卑怯なる敵軍は五十餘の死屍を陣中に遺棄し、躓けつ輾び
つ這這の體にて血路を求め、九死に一生を得たらんが如く、命からがら金州路を指し
て潰走せり、此時將に天明に近からんとす、顧みて味方を驗すれば、一人の死者負傷者
あるなし、一同雀躍の情推して知るべし、凱歌幾番、聲天に震へり、旣にして戰勞漸く發
し、睡魔亦た襲ひ到つて堪ゆる能はず、乃ち陣跡に臥休して徐ろに後軍の繼ぎ至るを
待つ、天漸く明くれば、全總督報を得て自ら馬を飛ばし來り、爰に始めて夜襲の顚末を
詳にし、感謝稱歎之を久うするの後、十四人の地位を進めて、各黨軍の大將と爲す、然れ
ども十四人固辭して之を受けず、唯客將の地位を以て軍事百般の畫策に參謀たらん を諾するのみ、全は此好機に乘じて直に官兵を追跡し、卽朝本營を雲岩店に移し、先鋒
を長橋里に進めて、旦夕金州を衝くの勢を示せり、而して更に他面に於て力めて四方
の窮民を撫恤し、其酷吏を追ひ、其暴稅を除き、擧措堂堂宛として王者の風あり、湖南の
健兒是に至つて彼が幕下に歸屬するもの五萬人、聲威遠く湖西嶺南を震撼す、大丈夫
馬上の事豈に亦た快ならずとせん耶、喜ぶべき飛使の忽ち萬里關より本營に馳せ到
るあり、其使命に曰く、順天の少年李福龍、鄕兵四千を堤げて順路金州に攻め上らんと
す、願くは是より全總督の節度を承け以て共に與に天下の爲めに妖霧を排かんと、又
不快なる一報は別に先鋒の營より齎らされたり、曰く今日勅使と稱する者、全州より
來つて媾和の意を通ず如何にか之を接遇して可なる、敢て總督の賢慮に訴へんと。
天下億兆の爲めに妖霧を排して立たんとするか、抑も亦た王命を拜して媾和の約を
立てんとする耶、全總督の進退去就果して如何。

萬馬關頭の少年英雄

萬馬關頭より急使を全琫準の本營に送り、共に與に北上の義軍を起さんと寄語し來
れるものを誰とかなす、此は是れ少年英雄の偉名を轟かしたる全羅順天郡の李福龍
也、福龍此時年僅に十四、而も天資英邁にして俠氣に富み、膽略ありて鄕黨の重望を荷
ふ、全琫準の軍京兵の攻圍する所となるを聞くや、福龍慨然として衆に謂て曰く、全總 督今日不幸にして萬一の變あらん乎、天下百姓蘇活の願望是れより終に絶えん、我故
に今より別路を進んで、直に全州の城營を窺ひ、以て官兵の背後を衝くの勢を示し、自
然に總督を危念より脫せしめんと欲す、諸兄弟若し平生の約に背かずんば乞ふ之よ
り相共に兵を擧げて萬馬關に據らんは如何と、於是鄕人の彼が義に伴ふ者、無慮四千
人、聲勢大に震ふて道東俄に尨然一敵國を生ず、官兵今や一面に全の精銳を引受け、他
面復た李の荒手を迎ふ、攻守困難の地に陷らざる可らざるなり。(天佑俠拔抄)

이 페이지에 제공하는 정보에 대하여 만족도를 평가해 주세요. 여러분의 의견을 반영하는 재단이 되겠습니다.

56149 전라북도 정읍시 덕천면 동학로 742 TEL. 063-530-9400 FAX. 063-538-2893 E-mail. 1894@1894.or.kr

문화체육관광부 전라북도청