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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
玄洋社社史 현양사사사
  • 기사명
    5) 東學黨と合す
  • 이미지
    prd_0141_024 ~ prd_0141_035 (408 ~ 419쪽) 이미지
  • 날짜
일러두기

五 東學黨と合す

一行は馬山浦より、昌原に至り、昌原山中金場に於ける長崎縣人馬木健三の經
營する金山に赴き、其貯藏する所のダイナマイト賣却を乞ふ、馬木應ぜず、交涉數
時間に及び、漸くにして、左の方法によりダイナマイトを盜取することを承諾す。

馬木は天佑俠の請求に應ずべし、天佑俠も亦馬木の請ふ所を承諾、せざるべか
らず、馬木は朝鮮政府に對する口實を得んが爲めに、總ての火藥を天佑俠に强
取されたる姿に裝ふの要あり、故に天佑俠は鑛山傭ひ韓人の目前に於て强取
の態度を示すべし、然る後支配人は必ず火藥庫の案內をなさん。

玆に於て深更時澤ビストルを放ち金山使傭の韓人三十餘名を脅して、退去せ
しめ、馬木父子を縛し、三百餘個の爆裂彈を八百長的强奪によりて手中に收め咸
安晉州を經て、南原府に到り、東學黨と會す、東黨一行に書を寄せて曰く、

貴國大人各位、萬里を遠しとせずして駕を陋地に枉げ熱風火雨、長途の勞苦誠
に驚惶に耐へたり、知らず諸公の此處に來る、本と大命を帶びて敗餘の吾黨人
を萬死に救はんがため乎、抑も亦別に期する所あるに由る乎、幸に敎示を賜は
ば幸甚、吾黨人曩きには貪官汚吏の民膏を剝割するを默視するに忍びず、一朝
俄然冤を鳴らし訴を呼び、衆を會して全州に入る、志一に百姓と共に其浮沈を
與にするにあり、意はざりき、城上砲丸雨下、敢て我千餘人を射殺す、至冤極痛の
情、今や訴を呼ぶに所なし、而して如是至冤の民終に指して不軌の徒に數へら
れ、方伯守命、每に劍戟を磨して吾黨人を邀擊鏖殺せんとす、天下の無辜之より
甚しきあらんや、是れ實に諸公の憐察を乞はざる可らざる所、且つ吾黨人本來
德を明かにし、道を宣ぶるを主意とす、故に久しく兵馬の間に驅逐すと雖も、今
に至るまで曾て一たびも無辜の民を害したる莫し、其紀律の整然亂れざるは 竊かに自ら京軍の上に出づるものあるを期す、諸公若し高駕を我陣門に枉げ、
而して愚蒙を啓諭するの勞を吝まずんば、何の遲疑をか要せん、何の躊躇をか
須ゐん、會生等席を請じて謹で諸公の光臨を竢つ。

と、乃ち一行武田、田中、吉倉を遣りて東學黨全首領と會せしめ、羽檄を有司金晉賢
に手授し、之をして朗讀の任に當らしむ、檄文の大意に曰く、

第一 海山萬里、艱苦を意とせず、特に來つて親ら諸公を訪ふ所以の者は、唯諸公が
義に據り大道を履み、王家の衰ふるを興し、百姓の流離を救はんとする其志に感激
し、同志十四人、乃ち産を擲ち家を捨て、死を以て父母の國を走りたるもの也、日や韓
や固と同祖同文の國と稱す、隣誼の情其存亡に對して默過すべきにあらず、然りと
雖も利害の關係旣に直接ならざる他邦人にして、尙ほ且つ義を見て奮興すること
斯の如し、諸公に在ては則ち先祖墳墓の地たり、宜しく當に其の國の爲めに至誠盡
忠、粉骨碎身すと雖も、猶ほ以て足れりと爲すべからず。

第二 濟民の擧や固より不可なる所なし、然れども其濟民の目的を達せんとする
に方つては、輕擧暴動は最も戒めざるべからず、否此の如きは徒に其大事を誤りて
大機を失ふに過ぎざる也、先聖云ふ、事に臨みて懼れ、謀を好んで成ると、是れ實に諸
公の鑑みざるべからざる所、仍て竊に思ふに當今の世、國に任ずる者の急務は四方
の形勢に對して自家の地位を考へ、審勢審敵以て能く天下の機勢に應じ、其生民を 安ずると共に其社稷の鞏固を計らざるべからず、若し夫れ此言に顧ること無くん
ば、國破れ家喪ふる必ずしも旬年を竢たざるべし。

第三 天下今日の形勢、其優勝劣敗角逐の狀、彼の如く恐るべきものなり、朝鮮の安
危存亡は豈に此秋に非ずや、而して現今兄弟內に鬩ぎ、虎狼外に窺ふもの多多、志士
身を以て國に殉じ、萬世泰平の基を立つる、今日を措て夫れ何の日を竢たん耶。

第四 朝鮮の時弊は上下一般偸安姑息にして、一念曾て國家の存亡に思ひ到るも
の無きに在り、時に上に在る者に在つては、宰相以下地方守命の徒に至るまで、皆爭
ふて其私を營み、詩酒淫樂、朝以て暮に接す、今之を改めて强健の國風を養成せんと
欲せば、革命は實に其第一手段たるべし。

第五 一杯の土も李氏の天下なり、一人の民も先王の百姓の子孫なり、然るに今此
土を割きて俄羅新に與へ、此民をして歲歲相率ゐて胡地に流亡せしむるは是れ果
して誰の罪ぞ、閔一族の失政の跡實に此の如し、彼の罪惡は單に暴斂に止まらずし
て、別に先王を辱しめ、社稷を傷ふものあり、志士豈之を默視するを得んや。

第六 唯夫れ物には本末あり、今日地方官吏の虐政が閔家の收賄政事より來るは
公等の素より知悉せる所、故に人民疾苦の因に出づる所は、公等も亦閔家なるを云
ひ、閔の罪の地方守命より重しと爲るも事理當然の論なり、公等の明智眼識旣に此
の如し、然らば則ち閔の罪の依て來る所、亦究め易きのみ、而して終に其罪を咎めざ
るは何ぞや、彼れ閔族惡政の背後には之が守護者として淸國使臣袁世凱あり、袁は 實に閔の惡を扶け、其罪を長ずる所の本尊たり、而かも公等は妄りに其敵手に袁大
人の尊稱を與へ、其敵國に祖國上國の佳名を獻ず、吾徒は竊かに公等の賢明にして
此の如き迂愚の擧に出づるを怪む者也。

第七 之を要するに百姓を虐する者は守命、守命の元惡は閔族而して閔族、惡政の
根元は袁と其本國とにあり、是れ天下萬衆の公論に係る、然らば則ち朝鮮の百姓を
して今日の塗炭に苦ましむる者は、彼淸國に非ずして誰ぞ、竊かに怪しむ、公等其刃
を袁と淸とに加ふるを忘れて、獨り之を閔と守命とに用ゐんと欲するを、否公等の
義擧僅かに斯くの如きに止らば、是れ旦に一閔を斃して夕に一閔を迎へんと欲す
るもの、百姓の痛苦、天下の禍根、何の時にか能く之を掃蕩し盡すを得ん。

第八 況んや公等は單に漢王の明朝時代に於ける恩惠を記憶し、而して現に朝鮮
に對して、淸國が大禍心を包藏する所以を知らざる者なり、曾て袁世凱が廣言する
所を聞かずや、三年の後、我必らず朝鮮を以て我版圖と爲し、其王を廢して庶民たら
しめんと、咄咄大逆無道不俱戴天の言、臣當に憤慨して節に死すべき所、而して葉聶
二將は其野心實行の先鋒となり、旣に海を飛渡し、來つて牙山の陣營に在り、宜なる
哉、袁の强ひて無道の政府を助け以て公等安民勤王の師を剿滅せんとするに努む
ることや。

第九 家族あるを知つて國家あるを知らざる閔は、葉聶二將の來つて牙山に屯す
るを奇貨とし、之に啗はして其暴政の援兵とならしめ、而して國王殿下の叡慮を惱 まさるゝを意となさず、彼等三人は實に是れ朝鮮の虎狼たり、公等閔を討ずるに方
つて、先づ牙山の淸兵を掃はざるべからず。

第十 閔族朝に立ち、淸人外より之を援助す、斯の如くんば、忠義の臣到底世に擧げ
らるゝの期なし、今日野に遺賢多く、年豐かにして而かも四民に菜色あるが如き、其
原因一に此に存す。

第十一 唯だ日本國民は則ち然らず、公等にして長へに其安民興國の志を持續せ
ん限りは、出來得る限りの盡力を與ふるを惜むこと莫し、義俠は實に我帝國三千年
の歷史を成せり。

第十二 故に公等にして我徒の言ふ所を聽かば、吾徒は欣然之より公等の先驅と
なり、矢石を冒し、劍刃を排し、以て北進京に入るの途を啓き、全力を盡して斃れて已
まば、彼れ牙山淸兵の如き縱令萬萬の衆ありと稱するも、一擊して膽を奪ふ、易易た
るのみ、何の恐るゝことか之れあらん。

羽檄は高らかに讀み上げられたり、聽者は愈愈謹嚴なり、讀んで奸臣專橫の罪
を論ずるに至る每に朗讀する者の聲は、俄に激張し、聽者は臂を張り眼を怒ら
し、百姓疾苦流亡の所に至れば、滿堂皆暗淚を浮べ、燭火亦た自ら明滅して夜氣
愁然たり、更に朝廷人なく社稷累卵の所に及ぶや、泣いて慟哭し、劍を拔いて柱 を斬るあり、以て聊か、黨人熱誠の眞情を察するに足る、獨り怪むべきは、袁世凱
彈劾の點のみ、衆人稍や半信半疑の色あり、終に黨人の義膽忠魂を稱揚する所
に至つて、歡喜の笑聲は、殿頭より門外迄一齊吶喊の如く、哄然として遙かに響
き渡れり。 憐むべく又愛すべきは彼等の狀態なり、流石の三士も暫く我を忘
れ、天地を忘れて暗淚に咽ばざるを得ざりき、渾身の熱血亦此時に於て烈しく
流動し、一死以て黨人の義擧を扶け、其宗廟の蒙晦を排除し、八道一千萬人の困
憊を救濟せずんば止まざらんとす、嗚呼黨人は如何なる魔術を逞うしてか、斯
くも容易に日本三個の俠丈夫を心的生擒とはなせしぞ。

全總督大に三士を饗す

少刻にして酒肉は席上に配列せられたり、東方血性の俠男子は、鷄籠八道の重患を雙
肩に擔はんとする無雙の俠士と肘を取て酌みて、陶然として醉ひ、豁然として語る所、
正に靑梅酒を煮て當世を談ずるの槪あり、旣にして晩餐も亦供せちる、陣中ながら流
石に馳走と鹽梅とは、其出來得べき丈の善美を盡したるが如し、全琫準語つて曰く公
等三位幸ひに來つて弊陣に駕を臨めらる、房舍坐食の事、聊か以て客中の適意を得る
に庶幾しと雖も、爾餘諸公に至つては、或は恐る旅館の不潔、永く足を駐むる能はざら んを、乞ふ之より直に迎へて粗餐を獻じ、且つ宿房を我陣の最佳處に選び、聊か一黨接
賓の禮意を致さんと、全總督の厚意實に多とすべし、されど夜は旣に太く更けたり、三
士は辭を叮重にして今夜の接遇を謝し、更に明朝を待て黨陣に移るべきを約し、杯を
撤して宴席を辭せり

義無ければ命ありと雖も亦何かせん

是より先き談端の將に開かんとするや、田中は黨人に對して謂て曰く、我れ旣に義の
爲めに死を許す、是を以て今此陣を叩くに方り、身邊復た寸兵尺鐵を帶び來らず、我が
諸公に對して些の戒意を懷かざる斯くの如しと、言ひ終つて冷然右側の吉倉を一瞥
す、然るに吉倉は此時平常の如く、何心無く短刀を帶して坐中に在り、田中の談ずる所
頗る自家の面目に關するあるを見て心少しく動き、咄嗟の間に一策を案じて大に得
る所あり、乃ち其の談話の終るを待ち、直ちに黨人を呼んで曰く、兵馬亂離の間、天下往
往刺客あり、變形橫行して敢て兇行を逞うせんとす、此の際三軍に將たるの士、大に戒
心する所なかる可らず、然るに日本の士風、古來刀を帶ぶるを以て例と爲す、甚しきは
之れを以て己の精神と爲し、行往坐臥曾て其身邊より離るゝを許さず、去れど殊邦の
諸公より之を見れば、必ずや異樣の感に耐へざる可し、今時に諸公の爲めに我所謂る
精神を除き去つて、暫く之を諸公の手中に委せん、聊か以て我に異心なきを證するに
足らん乎と、乃ち腰邊の刀を解き、之と對座せる黨人に與ふ、武田之を然りとし、自ら刀 を說して亦た黨人に附す、黨人乃ち之を束ねて別房に提へ去らむとす、全琫準叱責一
▣、忍ち手を以て之を制して曰く、咄咄臆病漢、爲す勿れ、我徒久しく萬馬の間に馳騁し、
九死の巷に出入す、仁は我が金甲にして義は我が鐵楯たり、天下行く所として我黨の
長るゝ者あるを見ず、今や貴客義の爲に至重の刀を解きて顧みず、其丹心眞に欽すべ
き者あり、我徒何分獨り其利刃に恐れて遽に之を收むるを爲さん、適ま利刃あり我が
胸に加ふと雖も義あれば則ち之に甘んずべきのみ、義無くんば能く生を偸むも亦何
かせんと、嗚呼是れ東學黨領袖が其肺肝より絞り出せる至言也、

東學黨中劈頭の日本人

此夜三士は黨軍を辭し去るに臨み、先づ待接の厚きを謝し、更めて之に告げて
曰く、諸大人旣に我等の來意を領せらる、想ふに我が同人も亦以て滿足すべし
冀くば諸大人また我徒が遠途日に曬され、雨に打れ、幾回か病厄を凌ぎ、艱苦と
戰ひ、而して漸く此處に到りたる微志を察し、長へに之を胸中に劃して以て遺
忘せざらむことを、黨人之を領して拜謝す、三士乃ち席を立つて出づれば、全總
督は殿を下つて之を見送り、配下は門外に竝列して敬禮す、

案內者金普賢手から燈を提へ、嚮導して郊外の客房に送り到る、黨士の悃情至れりと
謂ふ可し、誰か言ふ、東徒は是れ排日の分子なりと、當時天祐俠の見たる所に依つて斷 ずれば、之を操縱して朝鮮革新事業の中堅たらしむる、亦唯だ一呼吸の間なりしのみ
恨むらくは我廟堂一人の達觀者なく、前途有爲の黨人をして、空しく其向背を誤らし
めたることを、還つて客房に到れば、自餘の俠徒は旣に久しく鶴首して其歸來を待て
り、而して三士の還るや其顔上には微醺現はれ、其雙頰には喜悅を呈す、安慰の情知る
べき也、三士は幸にして毫も危險なかりし、否危險を想像して往訪せる當初の決心よ
り見れば、寧ろ絶大なる歡迎を受けたるものなりし也、此夜の訪問に依て三士が慥め
たる事實は、東學黨中數多の日本人ありと云へる世上の流言に反し、我が天佑俠の會
見以前に於て、絶て一日本人の同黨に加入したるものなきこと是れ也、

天佑俠東學黨の陣營に移る

一行は旣に東徒の日本人に向つて害意なきを知れり、其衷心より來陣を勸むるに對
して、如何んぞ、無下に之を拒絶すべけん、次日乃ち衆を擧げて其陣營に移ることに決
し、朝飯を終へ行李を調へて靜に他の使節の到るを俟つ、旣にして使節は來り、衆欣然
として馱馬を勒し、威風凜凜陣營に向ふ、此日彼は些の示威的行列を設けず又た門に
入て虛喝の發砲を試むるの迂愚をも取らざりき、

一行は數多の黨人に圍繞せられ、意氣揚揚として階を經て殿に上れり、殿堂は
卽ち黨人の一行に貸與せる所、郡の本衙と全琫準の本營との中央に在り、大房
一、小房一、共に其左右に屬し、中房には四五十疊敷の大廣間あり、結構莊宏、室室 淸潔、實に一行に對する無上の好館たり、而も一たび殿庭に出でゝ四面を望め
ば、左右前後皆是れ東黨の支營にして、旗影劍光、角音蹄聲、雜然又た擾然として
我が一行を圍繞せるを見る。

全總督と正式の初對面

全總督は俠徒の坐に着せるを見るや、自ら來訪して初對面の禮を致す、酒肴は又も饗
せられたり、大醉快談の間、一行は各自名字を連署して之を全琫準の前に通ず、全は一
行の服裝區區にして亳も一定の觀あらざるを見甚だ之を怪み、孰て問ふ所あり、蓋し
全の意服裝を以て位階を分つ所以ならんと信ぜる者の如し、一行之に對へて曰く、萬
里の客地更衣極めて難し、我徒の服色個個相違せる、之が爲めのみ、蓋し亦已むを得ざ
るに出るなりと、當時一行の服裝を見れば、日下は雷神打鼓の模樣を染めし浴衣を着
け、田中は朝鮮袴、支那胴着、日本羽織、三國の折衷服を用ゐ、武田、內田は純洋服、鈴木は純
日本、吉倉は錦衣紫袴にして烏帽子を着し、時澤は士官の略服に胸上勳章を輝かし、名
人各色奇裝奇冠、異邦人の目より之を見れば殆んど百鬼夜行の感あるを免れざる也
旣にして全は一行の携帶せる武器の精銳にして、佩劍の明晃晃たるを見、大に驚いて
曰く、久く聞く日本刀は是れ天下の精銳たりと、今親く之を見るに及んで人言の我を
欺かざるを知る、嗚呼此一事恐くは區區貧弱の鄙邦、終に貴國と天下に竝立して、東洋
の大局を維持するの任に耐へざらん乎、甚だ憾む可き也と、長歎して大息す、彼が愛國 至高の熱情は物に觸れ、事に接して時時橫溢すること斯の如し、 (天佑俠拔抄)

斯くして天佑俠士は初めて東學黨陣營に移り、玆に相合して其行動を共にする
に至れるなり。

チヨイト一萬圓

頭山翁の全盛時代には、時の高位高官と雖、爲し能はざる豪快な遊びをやつたもので、
翁が烏森の濱の家と仲の町の桐半とへ、かけ持ちで金を蒔いて居た頃、翁が暫らく仲
の町へ足踏しなかつた、或年の霜月、有繫にそろそろ下馱の音も凍らうとする不景氣
柄、桐半でも思はぬ事に出費が嵩んで弱つて居たが、女將は急に思ひ立つて濱の家の
女將お濱を訪ねた、女同志の聲も低く火桶を中に話すのを聞けば「頭さんに是非少し
遊んで戴くやうにお賴みして下さいな」「お話してみませうが幾らばかり」「左樣ネ
チヨイト一萬圓ばかり遊んで頂けば」と茶漬けを搔きこむやうな手輕な話、翁はこれ
位大きく遊んで居たのである。

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