四 天佑俠成る
的野、鈴木等が東京に於て金玉均の弔合戰を名とし、國威維持を絶叫して韓國
出兵の奔走を爲しつゝありし當時、朝鮮に在りし關谷斧太郞等は專ら東學黨の
內容を探索し、其組織、土匪鼠賊と選を異にするを見、之を援けて韓半島に事を揚
げんと欲し、兵器彈藥を準備せんとして、關谷斧太郞、西村義三郞歸國、福岡に來り
內田等に謀る所あり、內田等は內地に於て兵器彈藥を求めんとするの危險と無
謀を說きて之を諫止するも關谷聽かず、久留米に赴き、之を渡邊五郞に謀る、時に
島田經一淸國より歸來し、關谷に兵器準備運動を訓むるあり、又大崎正吉、朝鮮よ
り歸來し、東上して秋山定輔、鈴木天眼等に韓半島の狀を告ぐ、秋山鈴木、的野等は
旣に平岡、頭山等と謀る所あり、玆に於て第一偵察隊を韓國に派遣すること、第二
偵察隊に次いで玄洋社隊を韓國に送ることを議決したり。
的野は平岡の選擧を名として福岡に歸り、次で大崎正吉、鈴木天眼、日下寅吉、時
澤右一(陸軍中尉)等福岡に向ふ。
時に九州、日報釜山通信員大原義剛、福岡に歸省したりしが、的野、內田等の畫策
を聞き之に加はる。
的野は福岡市下名島町吉已屋旅館に在りて、征矢野半彌に對し、平岡の意の在
る所を告げ、競爭の不利を說き、征矢野は其鄕里に選擧區を移し、第三區を平岡に
讓らんことを交涉するや、征矢野之を諾したるも、自由黨支部との交涉に行惱み
を生じ、交涉遂に不調に終れり、(然れども平岡遂に當選し、二十七年以降、三十九年
に至る間衆議院議員たり)、時に警視廳は早くも、的野等の計謀を探知し、警戒甚だ
嚴なり、時の福岡縣警察部長有田義資、一日進藤喜平太、的野半介を其邸に案內し
て曰く、「的野氏近く某方面に旅行の企ある由なるも、其旅行は中止して貰ひたし」
と、的野曰く「予の福岡に歸りしもの、他意あるに非ず、只平岡の選擧事務に關する
のみ」と、乃ち的野は飽迄自個の素志を貫かんとせば、同志の行動亦警察方面より
注視されん事を慮り、遂に朝鮮行を中止せり。
鈴木、時澤、日下、大崎、內田、大原等の行李旣に整ふ、內田所謂らく此行爆彈なかる
可らずと、乃ち大原と謀りて同志等と門司石田屋にて落ち合ふとを約し、平岡の
經營する福岡縣赤池炭礦に到り、坑長兒島鐵太郞に爆彈分與を乞ふ、兒島之を諾
す、此時早くも內田、大原の行動に對し、警察署は大に注意する所あり、直方警察署
員竝に赤池炭礦請願巡査をして之を監視せしむ、內田等事の破碇を恐れ、末永節
を使として關谷等を直に門司に赴かしめんとす、門司警察署長大倉周之助は玄
洋社員なり、內田、大原、鈴木、日下、大崎、時澤等の爲さんとする所を知ると雖も之を
默過す、夜に入り末永より電報あり「ヒトフネオクレテタツ」と、鈴木、內田、大原等一
刻の逡巡は遂に破端の基ならんと、乃ち六月二十六日門司を發し、釜山に向へり。
一行が朝鮮に向へる翌日、渡邊五郞、關谷斧太郞、西村義三郞、末永節等皆久留米
に捕へらる、所謂福岡縣の爆裂彈事件なるものこれなり。
一行釜山に入り、釜山に居る田中侍郞、本間九介、柴田駒次郞、千葉久之助、武田範 爰に湖南泰仁の地に、鄕士、全琫準なるものあり、年齡將に四十にして、識學自ら博く放 暴吏の占據せる郡衙は一擊にして彼の爲めに破らる、此處に蒐集せる金穀は、彼直ち 於是、五十六管は正に其兵馬悾愡の修羅の巷たり、去らば全琫準は、彼等の所謂新天子 韓山八路の騷亂は、今や其極に達して、傲頑なる淸國は慢然として之に援兵を與へた 彼等の精神に在ては個個の間、固より秋毫も相異なる所なし、然れども彼等の系統出 (一)京城派 田中侍郞、關屋斧太郞、本間九介、柴田駒次郞の諸人之に屬す、彼等は二十 (二)釜山派 二十六年吉倉汪聖が朝鮮再遊の時、大崎正吉、千葉久之助を伴ひ行き後 (三)筑前派 關屋斧太郞、吉倉の忠言を容れずして、同志と共に筑前に至り、別に爲さ (四)二六派 釜山に於ける京城釜山兩派の合議に依り、大崎正吉を東京に派して鈴 以上四派相合して、釜山より馬關浦に渡り、突然烽煙を昌原の鑛山に揚げて幾場の活 釜山大本營の動靜
京城の梁山泊、事情の爲に陷落して以來、釜山は正に彼等一黨に向て、中央大本部の形 紫山水明閣の會議
時機は彼等を驅つて、一夜釜山の水紫山明閣に、一黨の大會を催さしめゐ、座に主なる 兩朴山道の黨情を探る
武田千葉の二人は朴善五、朴善七の名を以て身を藥商に扮し、密陽より淸道に入り、大 吉倉先發の決心
然れども一方に於て、淸兵來援の爲めに、湖南の東徒は意氣漸く消磨し、一旦占領して 兩士の先發
時は明治二十七年六月二十四日、釜山居留地の郊外、富平洞の大路を優然として步み 本隊水陸より竝び進む
同二十七日の淀川丸は、一團の志士を日本より釜山に運べり、鈴木、大原、內田、大崎、日下、 平岡、頭山、的野等が東京に在つて奔走したりしものと、相對照する興味甚だ深き
之、白水健吉、葛生修亮、大久保肇、西脅等十五名と、天佑俠を作り、年長の故を以て田
中を俠長に推す、當時內田は年齒僅に十八の美少年なりき、一行釜山を發して馬
山浦に至るや、此の地に吉倉汪聖、井上藤三郞に會す、井上時に十四歲の若冠なり
(
膽にして、愼重、氣慨あつて果決なり、幼より東學の開祖崔濟愚に就いて其敎を聞き黨
人間に在つて最も衆望を有す、是を以て終に擧げられて其接長となり、威名次第に南
三道に振ふ、崔時亨の嚮きに武を慶忠の間に示すや、全は濟衆の時未だ到らずとして、
俄かに起つて之に應ぜんとせず、獨り退いて湖南の僻▣に潛み、寂然として岩穴に棲
し、自修他導唯敎の爲めに、孜孜として盡す所あり、衆望之が爲めに愈愈加はる、然れ共
全琫準亦極めて覇氣に富めるもの、焉んぞ無爲にして其一生を醉生夢死の間に空過
するを得ん、唯彼れや、其器局、時人に比して頗る宏闊に、眼識亦甚だ遠大なるものあり、
是を以て念、▣たび民生の疾苦に及べば連想、直ちに國家興廢の事に至り、從つて閔の
跋扈を憤り、妃の淫縱を憂ふること一方ならず、乃ち天下の禍根を絶つは、先づ之が元
兇を斃すに在りとし、靜かに野に處し、韜晦して自ら發するの機を竢つ者久し、然るに
果せる哉其の機は終に到れり、彼が隣鄕古阜の郡守は每に勢に賴り權を弄し、民怨を
顧みることなくして强て其收斂を恣まゝにせんとす、黨政上、古阜は彼が任たる接長
の管區內に屬せり、故に彼れの親人と彼の黨人とは先を爭ふて皆彼れの許に集り、彼
れの速に起つて其大なる手腕を揮はんことを勸めたり、然れども彼未だ容易に之に
應ぜんとはせざるなり、彼が威名を慕へる黨員外の隣境の人も、亦彼を訪ふて俱に起
たん事を要請せり、然れども彼れ尙神色自若として動く所なきこと、猶ほ木强人に似
たり、これ何の故ぞ、彼が如きの人物は誠に千歲の一人なり、彼にして此國家危急存亡
の際輕輕其身を處して進退宜しきを失ふあらば國家は亦彼と共に亡びん、宗廟亦彼
と共に倒れん、彼の其身を重んずるは、固より其の所といふべし、然れども彼も亦男兒
なり、世に處して豈に一個の大野心、一片の大功名心無からんや、去れば談判數回の極
彼は終に衆人の已が隱退を許さゞるを見るに及び、決然其の赤心を吐露して曰く、諸
兄の志旣に義の爲めに斃るゝに在らば我亦何ぞ强て其擧に同せざることあらん、唯
我が欲する所は、東學の所謂濟世安民の大義を伸ぶるに在り、一道を亂るも誅せらる、
八道を亂るも亦誅せらる、誅は一なり、願くは事功の大なるを取らん、諸兄の意幸にし
て爰に決せば、我亦奮つて其驥尾に附し、復た骨肉を以て念を變ずる事なく、決然とじ
て道の爲めに殉ぜんのみ、敢て諸兄の決心を望むと、是れ誠に彼の眞面目なり、否是れ
獨り其眞面目なるに止まらず、彼が多年滿を持して放たざりしは、深意或は機に乘じ
て這般衆人の合意を促さんが爲めなりし乎を疑はざるべからずとす、於是元來彼を
仰ぐ事泰山北斗も啻ならざる衆人は、直に彼れの陷るゝ所となり、萬口一濟彼の萬歲
を稱し、彼れを擁し、雀躍して彼と共に彼の草盧より蹶起せり。
に散じて之を多年困弊せる郡民に施與せり、彼が私利心なき此措置は、益益隣境人の
欣慕する所となり、彼が義軍は期月にして四方より來投する者數萬に及ぶ、彼の名聲
は日に益益振ひ、黨軍の到る處は、百姓簞食壺漿して之を迎へざるなし、是に於て彼又
檄を連邑に馳せ、擧兵の要旨を三南所在の諸豪に致し、俱に與に約を立て力を合して
君側の奸を拂はんと計る、諸豪應ずるもの踵を接して續き長興の李爺は八十餘歲の
老軀を賭して郡民を煽揚し、順天の李福龍は、十四歲の若冠を以てして四萬の義兵を
擢げ、烽烟千里、旌旗野を蔽ひ、各路より正正堂堂として全州の監營に逼り來る、官軍出
討するもの一望して氣喪し、膽落ち復た能く一人の戰を言ふ者なし、將相亦皆狼狙し
て、群議出づる所を知らず、恐怖の極、終に大淸の天兵なるものを乞ひ得て來り、纔に之
を以て黨軍を威壓せんとするに至れり。
にして、李の王朝に代るべき運命を有するものにあらざる歟、縱令ひ然らずとするも
彼は日後、萬里長驅の勢を以て朝鮮の南方を席捲するに及び、滿腔の覇氣、終に開南國
王の尊號を自稱するを禁じ得ざりし、然らば則ち天の曆致、必ずしも彼が頭上に落下
せざりしものを斷言するを得ざらん、惜い哉、當時吾國、彼を御し得る底の大人物なく
彼をして空く濟世興國の雄志を齎らして、九泉に逝かしめたる事や。
り、日出處の國裏、遙かに之を觀望して、腕鳴り血湧もの何ぞ限らん、意外にも又意外に
も一團の俠徒、總勢擧つて僅かに十五名、驀然として慶尙道の南部、馬山浦の一角より
全羅の內地に突入し、大膽にも暗夜、數萬の東黨の陣門を敲いて、斡乾轉坤の大手腕を
海外に振はんとするものあり、一團十五名の俠徒とはそも誰をか指す、卽ち當時世に
喧傳せられたる天佑俠是れなり、借問す彼等十五名は當初より其志を一にして事に
朝鮮に從ひたるものなる乎、將た彼等個個の志を以て奮起し、中道にして意氣相投合
するに至りたるもの乎、乞ふ聊か次に於て述ぶる所あらん。
處に於ては、皆各各相同じからざるものならずんばあらず、今其出處を區別すれば大
略左の知し。
四五年の頃より京城に在つて觀風の志士を招來し、二十七年の春に至り事情あ
つて釜山派に合同せるものあり。
筑前の武田範之、白水健吉、千葉の葛生修亮、對馬の大久保肇、其他數名と釜山に梁
山泊を築き、爰に居る事二年、其間終始意を朝鮮の內亂と開導とに注ぐ所ありし
が、終に京城派を包容して聲威益益振ふ。
んとする所あり、此時恰も天眞館の內田甲が末永節等と共に事に朝鮮に赴かん
と欲する志あるを聞き關屋乃ち之に謀る所ありたれ共、內田彼が其準備を內國
に於てするを危しとなし、百方其中止を勸め、言聽かれざるに及んで玄洋社の大
原義剛と共に先んじて韓に入る。
木力等を招く、入韓の途次、時澤右一、大阪より之に加はる。
演劇、之より生じ來る。
勢を成せり、然るに今や彼等が待に待つたる千載の一時は來れり、湖南の風雲は日一
日と嶮惡にして、出討の官兵旗を卷て走り、連城連邑、東學の占むる所とならざるなく
嶺南の地亦其山郡一帶を侵略せられんとす、形勢頗る危急に瀕せり、彼等豈に踴躍し
て此好機に投せざらんや、曾謁鎌倉源右府墓、我欲征大明汝諾否、大丈夫當用武萬里外
何爲鬱鬱老小洲、彼等が酒を被つて連日連夜口吟する處は卽ち是れ、今に至り躊躇し
逡巡して其平生の所期に乖くが如きは、彼等斷じて之を爲すべきにあらざるなり。
者、先づ曰く、如何んが吾徒の前途執る所を決せん、一人應じて曰く、第一着として士を
四方より招致せん、衆別に異議なし、乃ち大崎正吉を東京に派して、鈴木と相謀らしむ
ることゝなす、一人又曰く、山道旣に急なり、吾徒宜く速かに東學の情形を審にして、他
と合縱連衡の地をなさゞるべからず、衆皆以て然りとなし、直ちに武田範之、千葉久之
助を星州金山地方に遣はす、是に於て方針略略定まる所あり。
邱府蛛洞の豪族、徐相龍を訪ひ、次日の黃昏、漸くにして金山の邑門に到る、百姓數萬、市
頭に喧騷して形勢甚だ平穩ならざるものあり、朴善五、行客に就て其動靜を探る、曰く
是れ東學の餘黨比鄰に出沒して、人心往往之が爲めに脅かさるゝものなりと、朴等乃
ち欣然酒家に就て宿を定め、半夜街上月を踏で吟遊の態をなし、以て益益黨情を探ら
んとす、當面忽ち一偉人の路を塞ぎて一睨するものあり、彼れ呼んで曰く、來れ孺子共
に與に語らん我に從つて酒幕に入れ、朴等懷稍稍穩かならずと雖ども動を鼓して之
に伴ふて一醫家に投ず、偉人坐に就き、莞爾として杯を擧げ囑して曰く、汝等我東道の
直意を知る乎、余は其道を宣揚せんが爲めに、夜夜巷頭に在つて行人を竢つものなり
と、朴等事の意外に出でたるを以て、始めは稍稍狼狽して疑ふ所なきにあらず、去れど
他の諄諄として說き去り、至誠の人を動かすもの少なからざるを見るに及び心中漸
く安んじ、乃ち更めて之に來意を報じ、合せて其道の祕敎と、頃日擧兵との目的とを聞
かんと要す、彼亦快諾、仔細に公明なる黨情を告げ、且つ大義の濟衆安國に存する所以
を明にし、其祕符、侍上席造化定永世不忘萬事知の十三字を授け、再會を期して酒家よ
り出づ、朴等是に至り、探究の意を遂げたるを以て、星夜馳せて釜山の水明閣に歸り、同
志を集めて報告する所あり。
號令の根據地となせる金州城を再び官軍に返へし、鋒を收めて南に還らんとする飛
報あり、一たび此機を逸する時は、彼等は大業復た期すべからず、而して其成敗は今や
將に一髮の間に分れんとす、於是吉倉は同志を相請して曰く、嚮きに東京に派したる
大崎は茫として未だ消息を知るべからず、福岡に赴きたる關屋は成功固より期せざ
る所而して此間の一刻は平時の十年にも匹當す、吾徒空しく手を拱して他の返るを
竢つべきにあらざるなり、加ふるに東徒の現情彼の如く旦夕を計るべからざる危急
に瀕せり、丈夫唯一死を賭して大道を行ふべきあるのみ、我れ乞ふ此任に當り成すべ
くんば彼徒の頑勢を挽回し、萬一成すべからずんば、彼徒の傑人の命を救ふて日本に
走らん、諸公暫く我爲す所を默視せよと、田中、武田、白水、皆之を然りとなし、吉倉は鈴木
等の來着を竢つに及ばずして、單身先づ湖南に向つて其啓行を試みんとす。
去るものあり、手には笏を握り、頭上には烏帽子を戴き、紫彩の袴を穿ち、錦糸浮鶴の直
衣を着け、意氣揚然として顧盻する所當代の風采にあらず、其人やがて路畔の酒家に
入り、濁酒數酌、陶然として之を出で、吟聲朗朗、九德の嶮坂を攀ぢ登らんとす、微雨霏霏
たり、烟霞搖曳せり、燒くが如き當日の炎暑之が爲めに消殺せらるゝもの多し、彼れ愈
愈心氣快然として溪に沿ふて走る、後頭忽ち人あり、絶叫して呼んで曰く、吉倉君、且つ
獨り去ること勿れ、我も亦鎭西の一男兒、若冠は自ら若冠の任あるべし、乞ふ共に虎穴
に入つて虎兒を探り來らんと、吉倉之を顧みれば、平生能く相識る所の一少年井上藤
三郞なり、彼は其歲取つて僅かに十四、吉倉が主幹する所の新聞にあつて文撰たる者
然れども天資精悍にして氣鋒、銳峻凜として犯すべからざる所あり、吉倉亦常に其行
爲の大に當代の群童と異なるあるを知る、乃ち容易に戒諭して去らしむべからざる
を察し、先づ之に問て曰く、汝父母の許諾を得て來れる乎、曰く然り、曰く然らば以て共
に往くべしと、終に相提へて征途を急ぎ、其夜は龜浦の一旅店に投宿せり、次日曉起、小
四將軍の城墟を後に見て一舟早く龜浦の渡頭を過ぎ、やがて廣漠たる洛東江の中洲
を涉り、一水又一水、幾回が舟手を呼んで舟を艤し、滿眸無限の風光を吟囊に收め得て
漸く彼岸金海の領內に達し、義人尹子益を囹圄に訪ひ、直ちに馬山浦に向ふ兩人の馬
山浦に滯留すること兩三日、舟未だ全羅に向つて發せず、彼等乃ち當時の轉運御史、後
の農商務大臣鄭秉夏を尋ね、或は加藤左馬之助の水城に登臨し、或は土俗人情を觀て
漸く其鬱劫の情を制せり、然るに何ぞ圖らん便船を待つが爲め費やせる日子は、一方
に於て同志十餘名が行陣の準備を完成し、一朝偶然舟路より此處に來り會せんとは
時澤は、午前十時躍然として居留地に入れり、彼等は直ちに山紫水明閣に相會し、共に
與に前途の計を議せり、爆藥掛、銃砲掛、輜重掛、醫藥掛は各各相別れて己が任に走れり、
百般の準備は旣に成る、彼等は乃ち世の嫌疑を薄うせんが爲めに、殊更其徒を水陸二
隊と後進軍の一隊とに分ち、各各行路を別にして、船馬竝び進まんとす、大原、內田、白水、
千葉、大久保、日下は富民洞の捷路より走つて、多太古城の夜望臺下に出で、玆に水軍の
到るを待ち、水軍鈴木、田中、時澤の三人は、倭館南濱の邊より發して絶影島を繞り、西に
折て洛東の河口に達し、更に後進の武田、大崎、西脅等は快馬一鞭、龜浦路より昌原路に
來り會せんとす、水軍は旣に約の如く多太に於て內田一行を載せ得たり、韓海波靜に
して千里疊の如く、洛東江口より加德巨濟兩島の間、或は帆或は櫓忽ち馳せて、去つて
拂曉馬山の灣に入れり、先發の吉倉も亦是に至つて乎、此徒と共に南原路を指して馬
嘶劍鳴の形勢を漲りつゝ進まんとす。(天佑俠拔抄)
ものあり。