三 的野の奔走
上海に於ける金の橫死を聞ける日本內地の志士は、皆金の爲めに一掬同情の
淚を注げり、而して支那官憲の處置を聞きたる、日本志士の激昂甚だしく、直に交
詢社員は金玉均の友人を以て成る友人會を組織し、金の屍體を日本に引取らん
事を議決したり、乃ち齋藤新一郞を以て正使とし、岡本柳之助有志を代表して上
海に向はしむ、齋藤、岡本の上海に到着せる時は、旣に支那軍艦威揚に金の屍體を
乘せて朝鮮に送還したるの後なりしかば、二人空しく日本に歸り之を同志に報
ず、之を聞ける友人會の鈴木天眼、秋山定輔、佃信夫、的野半介等大に憤り、之れ正に
日本の國辱なり之を放任すべからずと爲し、大に議する所あり。
二十七年五月二十日、淺草本願寺に於て金の葬式を擧行す、金が、當時寓居した
りしは東京有樂町木暮方なりしを以て、棺を此家より出す、此日田中正造、鈴木天
眼、佃信夫、秋山定輔等的野の寓居に會し、日本は金玉均の爲に弔合戰を爲さゞる
可らざるを痛論し、以て帝國の面目を維持す可しと爲し、遂に的野半介を以て代
表者とし時の外務大臣陸奧宗光を訪はしむ。
的野、陸奧を訪ふて、金玉均の支那に橫死するに至りしもの實に帝國の國辱な
り、宜しく此の國辱を雪がんと欲せば淸國と戰はざる可らずと說きしも、陸奧は
卿等の謂ふ所は乃ち書生論なり、一亡命客の橫死を以て直に之が弔合戰を爲す
可しと謂ふもの到底能ふ可きに非ずと說き的野の云ふ所を排す、的野切に說い
て已まず、陸奧亦的野を說破する能はず、「兎に角戰が出來るや否や、川上に之を聽
け」と、一通の紹介狀を的野に與ふ、的野乃ち紹介狀を携へ參謀總長川上操六を訪
ひ、其金玉均との關係を說き、這般淸國の採れる行動が偏に我國を蔑視せるに基
く所以を說き、聞く閣下は舊臘(二十六年暮)より今春に涉り滿洲西比利亞の地を
漫遊蹈破されたりと、閣下此行によりて、淸國の與し易きを知らん、切に願くは報
復の法を講ぜられんことをと、川上答へて曰く、「卿の謂ふ所其理を盡せり、然れど
も伊藤總理を以てしては、之れ到底爲し能はざる所」と然れども的野の心中痛憤
已み難く事玆に到る國辱を如何せんと乃ち孤劍提身同志を募りて韓半島に渡
り事を擧げんと期す、當時鈴木天眼等も亦川上に淸國應膺の事を說くあり、的野
川上邸を辭し頭山を訪ひ、川上訪問の顚末を語り、且つ其孤憤を訴へ自己の決心
を告ぐ、頭山大に之を贊す、的野更に平岡浩太郞を訪ふ、當時平岡は實業に志を得
て旣に豐富の資を得、芝信濃屋裏手に寓居を構へたりき、的野乃ちその決心せし
所を以て平岡に告げ、頭山亦贊成せる旨を語り、今より、直に韓半島に入りて、大活
動を、爲さんと欲す、願は其資を頒てと、平岡、的野の謂ふ所を聽き「よか、草鞋錢を出
さうたい、貴樣も面白い事を考へたやね。 俺も一度川上に逢ふてもう(見やう)か」
と、五月二十七日的野、平岡を川上に紹介する所あり、川上、平岡と相會するや、平岡
曰く、支那は大なる牛の如し、世界列强皆支那を望んで垂涎す、之を要するに日本
指導せずんば、歐米列强之を導いて利を得べし邦を同じく、東邦に樹つ、歐米に導
するは不可、我國之を指導せざる可らずと、大に支那指導を說く所ありたり、川上
亦平岡の謂ふ所を可とし、且つ曰く之を思ふに我國の國會議員多くは大陸策に
就て定見なし、卿の如き先覺の士出でゝ、議員たらざれば國家の前途を如何にす
べきと、平岡玆に始めて衆議院議員たらんことを志す。
是より先き、人の平岡に衆議院議員たらん事を云ふものあれば、平岡は常に「俺
は頭山と安川と鶴原と四人一所で無ければ出ぬ」と答へ居たりき、然るに川上の
言を聽き、大に悟る所あり、愈衆議院議員たらんとの一念發するや、卽ち平岡は的
野と共に偶偶開會中の議會傍聽に行きぬ、時に議場には長谷場致堂、條約改正厲
行に就て、舌鋒銳く伊藤總理を攻むる在り、平岡之を傍聽し、勇心勃勃たり、明治二
十七年六月二日議會解散す、平岡玆に愈愈候補準備に着手し、的野を福岡に歸し、
福岡第三區候補征矢野半彌に對し、根據地讓受けを交涉せしむ、的野は此の交涉
を爲したる後ち、直ちに同志と共に韓半島に赴かんとしたるなり。