二 金玉均の橫死
玄洋社員的野半介等は、朝鮮亡命の士朴泳孝、金玉均等を鐵桶中安らに隱し以
て彼等が事を爲すの根據地を與へんと欲し、朝鮮善隣義塾を設立せんとしたり
しが、朝鮮政府、智運英等の刺客を送り、朴、金等の身邊を覗はしむるありて、亡命客
の危機日に相迫る、玆に於て朴泳孝は米國に遁れて、暫く難を避けんとし、金は日
本に在りて尙ほ獨立黨回復の氣運を策せしも、遂に日本政府は金の爲に謀り、之
を小笠原島に送る、當時小笠原島に金玉均と的野、來島等相會せしは、曩に之を說
けり、其後二十一年に到り、金は病の故を以て北海道に移され、二十三年、始めて東
京に歸るを得たり、朴、金等亡命後の朝鮮の國狀や如何。
淸國派遣の通商辨理委員袁世凱は、其後益深く事大黨と提携し、閔妃の意を迎
へ、宮廷に取入り、宮中の祕事一として知らざるなく、遂に彼は、朝鮮を名實ともに
淸國の屬邦たらしめんと欲し、二十四年一片の意見書を北京政府に致し、朝鮮倂
合說を建議するに至れり、袁の建議書を受取りたる李鴻章は、其說を可とし、韓帝
に向つて讓位を勸告せり、玆に於て韓帝は大に驚き、領議政沈舜澤、左議政鄭範朝
の二人に之を諮る、沈、鄭は事大黨中殊に、袁と親交あり、夙に其の藥籠中の人物な
れば、直に讓位に贊意を表せるも、韓廷未だ完く賣國の士を以て滿されず、幸に讓
位に反對する者多く、且つ北京政府內に在りても、今直に韓國を、其屬邦たらしむ
るは、名分に背き、且つ東洋平和の爲めに可ならずとなすものあり、議遂に已む、韓
帝、讓位の事不成功に終るや、袁は强ゐて、日淸間に、事端を生ぜしめ、以て自己榮達
の機を作らんと欲し、常に李鴻章に對し、報告するに虛報捏報を以てす、而も尙ほ
彼は韓半島に其野心を披べんとするには、獨立黨を根底より全滅せしめざる可
からざるを思ひ、事大黨を操縱して、僅に餘喘を保てる獨立黨員に對し、益益壓迫
を加へしめ、且つ亡命の志士を刺さしめんとし、明治二十七年三月、洪鐘宇を日本
に派す、洪鐘宇は金玉均の友なり、洪は李鴻章の一子李經芳の手書を金に傳へて
これを上海に誘はんとす、李の手書なる者果して眞に李の書狀なりや、將た洪の
僞する所なりや明ならずと雖も、書中記する所は「東洋の事共に與に提携してこ
れに當らざる可らず、今や韓國の內政大に紊る、一臂を韓廷に添へんと欲す、希く
は面晤して事を謀らん」との意あり、金之れを見て大に喜び、直に洪と共に上海に
赴く、その發するに莅み、頭山等深く金の輕擧を誡むるところありしも、金遂に聽
かず。
二十七年三月二十七日、金は上海に着し、洪と共に、東亞洋行に宿る、越えて二十
八日朝、金の居室に當り、轟然たる爆聲起る、金に從つて上海に赴き、其身邊に跪從
したりし、和田信次郞(目下東京市四谷警察署警部)は大に驚き、其居室に至れば、金
は洪の放ちしビストルの爲め斃されたるなりき、金を欺き遂に之を斃したる洪
は此時旣に何れにか遁走して在らず、和田は、憂悶空しく異鄕の天に橫死せる、金
の屍を抱いて悲憤の熱淚止めあへず、只長嘆息するのみ、然れども今玆に金の屍
を抱いて、徒に憤淚に咽び、長嘆息するも詮なきを思ひて、之を西京丸に運び、日本
に歸りて、善後の處置を取らんとせる折柄、數名の支那官吏來りて金の屍體を奪
ひ去りたり、是れ袁の指揮により、官吏金の屍體を奪ひて、支那軍艦威揚に運び、朝
鮮に送還せしめたるなり、洪鐘宇は金を斃すや、直に軍艦威揚に遁匿したるもの
にして、洪の行方不明に就いては、當時上海に於て一問題なりしも、之れ素より摩
伽不思議に非らず、袁の畫策のまゝに淸、韓共力して、亡命の浪士金玉均を斃した
るなりき。
嗚呼金玉均の一生、何ぞ夫れ悲慘なる、故國の爲に謀て志を得ず、亡命して異鄕
の風月に泣き、遂に南淸の客舍に兇手に斃る、志士の末路又悲しからずや。