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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
玄洋社社史 현양사사사
  • 기사명
    1. 天佑俠
  • 이미지
    prd_0141_003 ~ prd_0141_035 ( ~ 쪽) 이미지
  • 날짜
일러두기

第二十七 天佑俠

一 活動平岡に移る

玄洋社が自由民權を唱へて、東西に奔走するや、其の活動の中心は箱田六輔に
在りき、當時平岡浩太郞は、大に爲さんと欲せば、豐富なる財資を備へざる可らず
となし、炭礦經營に從事し、玄洋社の活動に對しては裏面に在つて之を援助した
りき、箱田病みて逝くや、進藤其社長に任じたるも、事實上首腦者となりて指揮采
配せしを頭山滿と爲す、當時旣に玄洋社の立脚地は、國權論に在り、箱田時代と完
く反對なりき、頭山玆に退くに及び、平岡出でゝ、玄洋社活動の中心たり。

曩に第十六章に於て、中江兆民、宗像政等の渡淸に當り、玄洋社員十餘名之と行
を共にせるを云へり、中江、宗像等の東洋學館失敗に歸するや、平岡は頭山等と相
議し、支那と我國と提携するにあらずんば、吾人何を以て東洋の盟主たるべけん
や、西鄕の意玆に在り、吾人は此志を繼いで、其希ふ所を達して以て、地下先輩の士 に酬ふ可きのみと、明治十九年平岡、大野仁平と共に大內義暎、山崎黑三郞、奈良崎
八郞、豐村文平、平岡常二郞、友枝英太郞、島田經一、關谷斧太郞、宮崎勝、岡喬、村山佐喜
太郞、外十數名を率ゐて上海に渡り、大に爲すあらんとす、或は深く內地に入りて、
地理風土を探索するあり、或は荒尾の貿易硏究所に止まるあり、平岡深く其志を
社員に告げ、上海に製靴所を設立して、宮崎勝、友枝英三郞を代表者たらしめき、然
るに當時渡淸せしものゝ內、關谷斧太郞、田中二郞等は、支那老いたりと雖も大國
なり、到底我國の力を以てして之れを指導せんなどゝは空想の甚だしきもの、努
めて而も容易に得べからず、宜しく努めて得べきものに當らざる可からず、夫れ
韓半島は、東洋禍亂の根元易より難に及ばんには先づ朝鮮の指導より先にせざ
る可らずと爲し二十四年上海より帆船を以て釜山に到る。

當時釜山に根據を据ゑたる豪傑連には、大崎正吉(奧州)千葉久之助(奧州)吉倉汪
聖(加賀)葛生修亮(千葉)武田範之(筑後)大久保肇(對州)西村義三郞(筑後)等ありたるが
當時朝鮮又亂れんとするの兆あり、豪傑連田中、關谷等に迎へ大に喜び、共に與に
事を爲さんと約す。

二十五年、一度び起りし東學黨直に亡び、二十六年復び東學黨起る、豪傑連機到
れりとなし、鈴木天眼、秋山定輔、內田良平等內地の同志に向ひ、盛に氣脈を通ずる
あり。

越えて二十七年三月朝鮮志士金玉均上海東亞洋行に於て暗殺され、朝鮮問題
を挾んで、日淸の風雲漸く急にして、遂に天佑俠の組織を見るに至れり、天佑俠と
は果して何ぞや、今之を說くに先ち、朝鮮亡命客金玉均の消息を傳へんか。

金の橫死は實に天佑俠組織の依つて起る所、天佑俠の活動は實に日淸戰爭の
火の手なりしなり。

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