半夜壇上に英雄志を語る
今や佳肴あり、好酒あり、以て大に飮み且つ食ふに足る、數日間胡瓜計りの總菜に苦
められて、顔上菜色を帶び來れる俠徒は、欣欣然其酒肴を提へて半夜直に寺洞に隣
れる中嶽壇に走れり、中嶽壇は閔妃の祈禱所、雞籠山神を祭る、新元寺僧之を管し、天
下有數の靈場なり、其輪奐宏壯な、らずと雖も堅實雅麗、房房亦極めて淸瀟、頗る饗宴
の設備に適す。俠徒乃ち石階より上つて其門扉を排し、忽ち進んで其中壇の大堂
に入り、爰に席を定め酒肴を連ね、且つ飮み且つ談ず、談の次第に佳境に進むや、俠徒
盡く陶然、顔上殆ど紅を帶びざる者なし。此時一人の突然起つて衆に謀つて謂ふ
者あり、曰く、我徒旣に東徒と連盟す今や天下の事先づ旣に定れるに庶幾し、否、朝鮮
の死命は是に於て全く我徒の掌中に制せらるゝ者なり。旣に其死命を制すとす
れば、我徒は是より更に朝鮮に據つて天下を制する所以の道を講ぜざるべからず、
何如となれば朝鮮獨立は我徒一時の手段にして天下平定は我徒多年の宿望なれ
ば也、乃ち此良夜をして山神祠頭、共に與に大に志を談ずる亦可ならずやと
衆皆之を贊す、於是田中優然其手裏の大盃を傾け盡し、先づ口を開きて曰く、我徒旣
に朝鮮を定めば支那と兵を交うるは必到の勢なり我乞ふ其時に及んで直ちに援
兵を日本に求め、日韓兩軍相連ねて馬を鴨綠口に飮ひ、進みて遼東の野を席卷し、關
を越えて、北京に入り、而る後南征、北伐、四百州を蹂躪し、四億萬の蒼生に號令し、玆に
東亞三邦の聯合を全ふし、以て雄を世界に爭はん、鈴木咳一咳徐ろに席を進めて謂
つて曰く、卿の期する所も亦甚だ好、唯我恐るゝ所の者は、日韓今後支那と相戰ふに
方り、英が其貿易上の關係よりして、頻りに款を支那に通じ、以て日韓聯合の勢を妨
害せん事に在り、故に我れ其時に臨んで歐米遊說朝鮮特派の全權大臣となり、列國
樽俎の間に立つて大に折衝の技を振ひ、以て興亞の宿志を全ふするに力め、且つ東
學黨政府の依託に添はんと欲す。內田曰く、我は英よりも寧ろ露國南下の勢を其
間に馴致せんことを憂ふ、彼れ露は多年侵略の政策を堅守し、而して次第に鐵騎を
黑龍江岸に送り、機の熟するを竢つて突然峰火を滿蒙の間に揚げんとす、其蠻力の
懼るべきは到底英の比に非ず、思ふに東方百年の深憂は必ず玆に在るべし、我故に
東學政府の半島に樹立するを特ち、去つて露に遊び、而して其上下の關係、各人種の
感情を究問し、其進步分子に交り、內より外より其革命を誘起せんことに力め、一方
には日淸韓の士民に遊說して其西比利亞移住を勸諭し、以て生産的實力的に露の
勢力を東方より驅逐して、之をウラル以西に封鎖せんことを期す。大原曰く、我れ
は東亞勃興の大策として寧ろ日本の根脚より堅立し始めんことを欲す、其法他な
し、一方に於て朝鮮の獨立を擁護すると共に、他面には臺灣ヒリツピンの經略に從
ひ、以て太平洋控制の勢を作り、自然日本をして支那朝鮮暹羅印度大陸一帶の地の
後見たる地位に立たしむる是なり。斯の如くすれば國を泰山の安に置きて而し
て又道を天下に行ふに足る、誠に一擧兩得萬全の策と云ふべし。武田曰く八道の
風雲旣に收つて天日復た淸明なるを得ば、我は再び樹下石上の舊身に返り、而して
道德を天下に宣べ、現時器械的文明の弊害を彈明し、人類をして必ず靈性ある人類
に改善せしめて止まん。大崎曰く、朝鮮支那大陸一帶の國風は、其主朝を根底より
顚覆するに非ずんば、以て革命の眞意を全ふし、且つ民心を一新して開進の實を擧
ぐべからず、我乞ふ朝鮮の事を終へて直に支那に入り、兩湖兩廣の豪傑を會合して
以て再び太平天國の旗幟を飜へし、胡人を冥北に追ふて玆に禹域の恢復を遂げ次
で暹羅に移り、山田長政の舊圖を繼ぎて、佛人を交趾支那より退け、更に印度に渡り
て夫の國民同盟の大業に協力せん。千葉曰く、我輩別に望む處なし、然れども諸君
常に我を呼んで九百と嘲る、其の意戰を好むが爲めに仙人(仙は千と通す)に百丈け
欠けたる所ありと、然らば則ち我志は言はずして知るべきのみ、唯戰の存する所、是
れ我が向ふ所也。日下曰く、諸君旣に東學黨と相計つて一たび義兵を朝鮮に擧げ
更に國際的交戰を他日に企圖して天下の平和を攪亂するとを意とせず、其志や嘉
すべしと雖も暴狀は恕すべからず、之を法に擬するに、正に國事犯旣遂未遂の俱發
罪乎、我乞ふ日後裁判官となり必ず諸君を死刑に處せん。一坐之を聞き來り皆手
を拍つて大に笑ふ、吉倉、白水、大久保、時澤、井上、西脅等、醉眼䑃朧、半醒半眠の間に在り
て又言ふ所を知らず、田中以下亦終に前後を知らず壇頭に醉倒して、鼾聲雷の如し
天佑俠は朝鮮革命宿年の志謀を行はんが爲めに、風臥露宿、萬里懸軍して漸く東
學黨と連合の途を開き、而して久く壯絶快絶なる活動を湖南五十六州の間に試
みたる後、終に一たび東學黨首領全琫準と訣別し、更らに八道第一の靈場たる雞
籠山中の一古寺を尋ねて、暫く爰に籠城することゝはなれり、是れ卽ち天佑俠が
天佑俠の本色を全ふし、俠徒一統百事協同的態度を取つて半島の天下に橫行闊
步したる所の大體なり、是より以後、或は內田急先鋒が單驅敬天驛に於て、五百の
韓人を相手に猛然激鬪を試み、九死一生の中漸く身を以て脫したる事、或は吉倉
大崎が白晝日本服の儘從容自若として成歡七原素沙場の支那陣中に出入醉臥
したる事、或は同志數名が安城に於て支那兵鏖滅の大會議を開きたる事、鈴木大
原の徒が江原道に於ける支那兵追攘の事、或は田中千葉が平壤中和に於て我陸
軍の爲に大冒險を試みたる事等、其膽勇武略の天下後世に傳ふべき者少なから
ずと雖も、こは唯個個が一時氣に任じ、快を貪りたるものに過ぎずして、之を天佑
俠當初の目的より見れば、何等關係の存する所なし、故に本篇は先づ筆を雞籠山
の籠城に擱め、更に他日を待つて其欠漏を補ふことゝせん。
天佑俠