俠徒淸皇の勅諭を剝ぐ
參禮以北四五里の間、行道に沿へる人家の壁上には、到る處支那皇帝の勅諭及び北
洋大臣李鴻章淸將葉志超聶士成の諭告を揭示せざる莫し、而して其揭示には東徒
に對する者と人民に對する者との二樣あり、共に文意暴慢を極め、朝鮮を以て己れ
の屬領となし、其國主を己れの藩王と爲し、自ら呼ぶに大皇帝或は天兵の佳號を用
ゐ、而して普天率土中華の有に非る莫しと誇稱す。俠徒行行之を讀み、其帝國民の
意思に反する甚きを見來り、勃然怒をなし、發見する每に一一其勅諭諭辯を剝ぎ去
り、一片も餘さず皆之を自家の袋裏に收め了る、沿道の韓人相見て茫然論守する所
を知らざる也