兩士門樓に臥して敵情を究む
前宵鈴木時澤の二人は宿舍の不潔とビンデの襲來とに耐えず、終に臥床より起つ
て街頭に出で、半夜中天の明月を賞しつゝ、知らずらず步を西門の方に向けたり、不
圖前面を月光に透かし見れば、守衛の兵三三五五壁上壘下を逍遙し、門側 には炬火
を燃し、樓頭には喇叭を嗚らし、戒警嚴然些の乘ずべき虛を存せざる者の如し、鈴木
時澤於是相謂つて曰く、彼處に聳立せる門樓は、淸風明月竝せて占領し、而して一眸
の下、城中の虛實を窺ふに足る者あり、是れ時に取つての好寢殿と云ふべし、萬方多
難、爰に臺に上る豈に亦可ならずやと、相携へて門頭に至る、守衛將と覺しき者、出で
迎へて其來意を問ふ、鈴木曰く、我等海外の客、甚だ貴邦旅宿の起臥に慣れず、然るに
今此樓畔に來り見るに、頗る故國建築の風に適へるを覺ふ、我等實に望鄕の情に堪
へざる者あり、願くば登臨の特典に浴せん、衛將之を聞き莞爾として曰く風流雅客
好し、我も公と共に登臨して月前相語らん、鈴木等計の圖に當りたるを喜び、之に從
ふて共に階段に上る、樓頭より眥を決すれば、錦江沿岸一帶の平野。夜烟杳杳の中、月
下に隱顯して茫漠涯なく、其形勝雄大自ら人をして胸懷を開かしむる者あり、更に
首を回らして東南を望めば、萬馬關の方面、今尙ほ炬火の天に映ずるが如きを見る、
想ふに是れ京兵の李福龍に備ふる者なるべし、又城內觀察使營の在る處には、笙笛
絃皷の聲、洋洋として湧き起り、伶人妓生の唱歌之に和し、曲調抑揚急緩して、頻りに
大官宴樂の狀を溢らす所、天下の擾亂は我關せず焉の風あり、鈴木等左顧右眄、感慨
頗る鮮なからず、乃ち衛將に相語つて、巨細に城中捍禦の手段配置を探悉し、終には
身を樓上に橫へたるまゝ優然眠に就き、淸風明月の下、夜氣の肌を冒すを知らず