觀察營中大に官人を說く
時澤吉倉は選ばれて直に觀察使營に向へり、營門は幸にして開かれたるを見る、時
澤等悠然として門を入り、進んで正面の宏殿に登らんとす、是れ卽ち觀察使の居る
所なり、時澤等次第に階を踏み盡し、左顧右眄すれども觀察使あらず、依て步を轉じ
て右方の高閣に向つて進む、此時門衛數十人後方より急驅して追ひ至り、口口に叫
んで曰く、狼籍者あり、侵入者あり、叩き殺せ、叩き出せと、時澤等之を顧みず、平平然益
益進んで閣上に登り、玆に獨坐して營務に從へる一高官に對し直に談判の端を開
きて曰く、我等異邦の人貴邦の內地を遊覽するに方り、馱馬其他の要件に付、官家の
保佑を受くべきは當然なり、然るに今道途の風聞する所に據れば、官家故意を以て
我等の發程を妨げ我等をして自由に迅速に行旅するを得せしめず、是れ抑も何の
意ぞや、冀くば速に馱馬を發給して、我等の上途を得せしめよと、官人憮然之を久ふ
して曰く、當時市中牛馬の負荷に便する莫し、蓋し是れ戰後の事情、事奈如共すべか
らざる所、公等請ふ專ら責を官家に歸する勿れと、時澤曰く、貴諭實に間然すべきな
し、我等敢て牛馬の事を問はざらん、然れど市中尙ほ負車の徒多くして、一人も我等
の荷物を運ぶを肯んぜざるは何如、彼れ是に至りて、辭窮して復た口を開かず、顧み
て闥外を見れば、門衛、守卒、雜人の輩、數百軍を成して閣を重圍し、日本人を叩く殺せ
と連叫して騷動言はん方なし、時澤形勢の到底不可なる所あるを見、初意を飜して
曰く、貴官にして負軍徵發の權なくんば則ち止を得ず、我等是より當に觀察使を訪
ふべし、觀察は何れに在る、彼れ答へて曰く、正門外の高堂卽ち其現に居る所なり、時
澤其欺言を以て門外に誘ひ、出すの謀なるを知る、然れども今之に對して强ゐて論
爭するも、將た威迫を試むるも、何の得る所なかるべし、若かじ此儘體面を全ふし、穩
かに歸つて一たび狀を同志に報じ、更に充分の威力を用意し、而る後重來して觀察
營を畏服し、以て其志を成さんにはと、乃ち閣を出で、階を踏んで庭上に下る、雜人四
方より之を圍繞して連罵すること前の如し、時澤等一睨し、悠悠として其間を徐行
すれば、一條の血路爰に忽ち開けて、復た一人の妨害を加へんとするなき也、彼等の
無氣力も亦甚き哉、旣に正門を出づれば、守衛倉皇として忽ち門扉を嚴鎖す、此時恰
も門窓より前面の高堂を指し、嘲つて云ふ者あり、曰く、觀察使彼に在り、而かも彼は
三十年前の故觀察使の祠堂なり、公等行きて之を拜せよ、必ず著るしき靈驗あらん
と、言ひ終つて笑聲哄然たり