敵の案內狀を提へて敵中に入る
時澤の一行は、衆に先んじて開門の爲めに全州城に向へり、日旣に黃昏、一行は全州
城外の河岸に達せり、水急きを以て之を涉ること甚だ艱、一行乃ち路傍韓人の背を
假りて彼岸に達す、其狀殆んど彌次郞兵衛が大井川渡りの奇智に似たり、前頭を望
めば、暮靄尙ほ蒼然として、壯麗なる幾個の城樓を其中に罩め、數回經戰の跡と見べ
き壞屋頹壁は、路の左右に狼藉し、滿眸總て荒涼たらざる莫し、一行此間を輕步し、漸
くにして東門の下に至る、然るに門扉は旣に嚴鎖せられ、城兵許多門樓に在りて、之
を警衛する者の如し、一行乃ち大聲して之を呼ぶ、彼直に應じ、其何者なるかを反周
す、一行曰く、汝等且つ樓より下り來れ、而る後我等其何の用たるかを告げんと彼於
是暫く躊躇する所わり、然れども一行の僅かに三人に止まるを確むるに及び意を
安んじて階を下り、而して門扉を開くこと寸餘、叫んで、曰く、近來天下多難、是を以て
夜に入れば警を觀察營に加ふること每に斯の如し、公命あるに非ずんば之を開き
て公等を導くを得ずと、時澤曰く、我等固より公文の在るあり、且つ言語衣服、旣に異
封の人たるに於て、何の警戒かあらん、乞ふ速に門を開くべし、彼乃ち扉を開かんと
す、上將夐に呼んで曰く、勿れ、外人と雖も必ずしも危險なきを保する能はず、萬一大
事を誤るあらば、我等守護の者、罪三族に及ばん、甚だ恐るべしと、城兵於是復た門を
鎖さんとす、一行此機の逸すべからざるを思ひ、突進扉を排して入り身は旣に炬火
の邊に至りて立てり、彼等之を何如共する莫く、囂囂擾擾、徒らに四邊に蟻集して其
狀容を望觀するのみ、時澤乃ち守將を呼び、靜かに之に謂つて曰く、我等固より怪ま
るべき人に非ず、玆に宋司馬の案內狀あり、乞ふ公より之を府官に轉送し、急速城內
に就て我一行十四人の宿館を定められんことをと、彼れ意を領し、案內狀を提へ去
る、時澤等は炬火の邊に安坐して之を待てり、待つこと約半時、回答尙ほ來たらず、時
澤等、頻に之を城兵に催促すれ共、回答なきは依然たり、少刻にして田中、內田、鈴木、大
原の後隊亦皆到る、時澤乃ち狀を之に語つて曰く、城中の優柔不斷斯の如し、如何せ
ば乃ち可ならん乎と、皆謂ふ、威力を算する更に一番せば、事を辯ずる易易たるを得
んと、一行の意稍や決して、半ば其準備に從はんとす、此時守將倉皇として暗中より
現れ來り、謝して曰く、公等を空待せしむること多し、乞ふ之より旅館に同伴せんと、
言終り、己れ先頭に立つて先づ進む、一行微笑亦其跡に從ひ終に西門內の一巨屋に
至て此に宿を定む