第二日早朝の北面軍
北面軍は京軍の中軍と相對戰せる者、敵の我に優る正に二三十倍、其容易に勝つべ
からざるは理の當然たり、報の本營に達するや、鈴木亦親兵二十五名を提げて赴き
救ふ、於是軍氣大に振ひ、將に敵を擊破せんとするもの數次、此時不幸にして一隊の
精兵俄かに東南面より顯はれ來り、敵の爲めに大に力を添ふ、旣にして東面京軍の
敗兵亦次第に之に加はるあり、相合して大原鈴木の軍を包擊す、我軍二隊に岐れ、防
戰甚だ力むと雖も衆寡固より敵すべからず、壘の一角終に破れ、漸次追れて秋月山
の高所に移り、地勢の利に據つて僅かに陷落の難を脫るゝものゝ如し、然るに何ぞ
圖らん、此地亦た西面京軍の敗卒、突如として山巓より俯瞰し、低きに就きて我を攻
むるあらんとは、我軍於是全く重圍に陷り、復た一人の生還するものなきに至らん
とするが如し、是より先き武田大和尙は、自ら淳昌の本營に留り、赤十字隊を指揮し
て、諸路死傷者の治療を爲せり、後ち北方京兵の優勢なるを聞くや、進んで雙岩里に
至り、萬一の變に備へんとす、而して今や危急寸刻に迫るの報を得たり、大和尙奮然
蹶起、直に附近の農具を徵發し、之を三十名の兵士に分與し、一種の鋤戟隊を編成し
て秋月山下に急驅す、蓋し赤十字隊本と兵器なし、卽ち止むを得ず農具を振つて、其
難に赴かんと欲する者、自身は乃ち一尺四五寸の戒刀を揮ひ、而して敏活猛劇に部
下を指揮する處、宛然たる古上杉霜臺の風采あり、漸く進んで戰地に近づけば夕陽
將に西天に沒せんとして暮靄蒼然、遠きより來る、敵に我兵の多寡を知しめざる是
より好時機なるは無し、和尙號令一下、吶喊して敵陣に殺奔し、左衝右突、忽ち一條の
血路を開き、突出一回、又更に突入す、山上の我軍之に依つて大に氣力を恢復し、奮鬪
力戰して後ち始めて蘇生の地を成せり、唯夫れ敵勢尙ほ未だ十重二十重の包圍を
解かず、之が爲め苦戰苦鬪幾回に及ぶと雖も、容易に圍を衝て山を下り、山下の我軍
に合するを得ざるものあり、山上の軍漸くにして氣力將に枯渴するに垂んとす、幸
なる哉、此危機一髮の際、吉倉、時澤、井上の一軍、逸足空を飛んで東面より來り救ひ、爰
に武田の隊と協同力を振ひ、終に大原鈴木の一軍を山上より擁護し來り漸く雙岩
里に向つて退き去る、其途中內田の遊擊隊、千葉田中の西面軍、大崎の輜重隊等の三
軍悉く來り會し、相提へて雙岩里の營中に歸着し、半夜燈前盃を擧げて戰勞を慰め
更に大に今後の軍議を凝す所あらんとす