連盟委員大に總督を說く
全の處置に依つて四邊の警戒旣に充分備はる所あり、然れども四人の委員は尙ほ
之を以て足れりとせず、更らに評議の上に筆談を應用し、一は以て萬一の漏洩を防
ぎ、一は以て日後盟約上の證據に供へんとす、武田は筆者として筆を執れり、三士其
筆すべき要項を示し、以て全の答詞を待つ
委員 公旣に身を以て義に殉せんとする志堅し、我徒乃ち大義を伸ぶるの策を
公に獻ぜんと欲す、冀はくは淸聽を瀆すを得ん
總督 謹んで高敎に接せん
委員 義兵一たび古阜より起つて、八道の形勢殆んど玆に一變し、淸は兵馬を連
ねて牙山に屯し、日本亦旣に大軍を京城に入る、而して後天下の民心恟恟然たり、
惶惶焉たり、箕邦の亂夫れ何の日にか定らん、私かに惟ふに淸人の來つて牙山に
屯する者、口妄りに恩を朝鮮に賣ると稱し而して其實大に相反する者あり、彼れ
が來るは實に外邦干涉の端を開く者と云ふべし、一たび爰に外邦干涉の端を開
く、將收の風雲復た必ずや之より嶮ならん、不幸にして風雲再び捲起するの日あ
らんか、盜相と奸臣と互に其機を利して益益其奸惡を逞ふし、百萬の蒼生流離顚
沛、亦た如何ともすべからざるの日あらんとす、嗚呼八路の民獨り何の咎ぞ、屢屢
兵火の慘に遭ひ、屢屢奪略の害を受け、而して猶ほ之に次ぐに一層の禍厄を以て
せんとす、公が義、奸臣と竝び立たずと誓へるもの、誠に其所なり、公等旣に大義の
擧あり、何爲れぞ更に一步を進めて大義を全ふするの道を講ぜざる
總督 高敎敬承、義を務むるの至諭、深く骨髓に銘す、我徒亦何ぞ之を勉めざらん、
抑も我徒義を古阜に唱へたるの主意、本と濟民の心願に屬す、微衷唯だ世の生あ
る者をして其の所を得せしめんが爲めのみ、是を以て陣を行り兵を率ゆるの際
と雖も、未だ曾て沿道一人の無辜を害はず、秋毫百姓の財を侵す所なし、爾來今に
至る數閱月、或は觀察使に就て愁訴し、或は檄を四方に傳へて我徒仁義の志を明
にす、然れども恨らくは奸邪朝に滿ち、便侫路を塞ぎ、草萊微臣の衷情曾て容れら
るゝ所なし、容らるゝなき尙ほ可なり、漫りに京軍を千里に進め、終に之を以て我
徒を蕩掃せんとす、然るに我徒は由來古聖賢名敎の徒弟たり、順逆忠不忠孰れか
就くべきの道なるか、我徒固より之を解す、是を以て義進んで鋒を王者の師と交
ゆるを得ず、彼れ西より來れば我東に避け、彼れ南に進めば我れ北に走り、力めて
相衝突せざらんことを期す、敢て我徒の怯懦なるには非る也、但だ彼れの不仁な
る、我軍逆名を懼れて逃避の狀あるを奇貨となし、全州の役、其巨礮を放つて我徒
千餘名を斃し、且つ無辜の州民を殺戮し、城の內外に於て人家數百戶を燒壞す、豈
に無殘の極に非ずや、我徒死を見る歸するが如しと雖も、素志未だ達するに及ば
ずして悉く兇刃の下に殲さるゝも亦太だ快とする所に非ず、是を以て一たび銳
を避けて終に城外に走る、圖らざりき大君主の至仁、我徒作亂の罪を恕して却て
之を招撫して優詔を垂下せらる、大仁海山、黨を擧げて其恩に感淚せざる莫し、仍
て和を官軍と議し我が獲る所の大砲數門を返し、終に徒衆を散じて各各其鄕に
還らしめんと欲す、今我れの此地に來る亦實に歸休の途に在り、嗚呼進んでは京
兵の沮む所と爲りて、政に參し民意を達するを得ず、退いては産業に安んじ、父母
を養ひ、敎學に精勵すること能はず、我徒の進退正に此際に谷まる刃に伏して死
せんか、民人の窮苦終に濟ふべからざるとを如何せん、强ひて暫く生を偸まん乎、
碌碌無爲、老境直に到り、徒に辱を重ぬるに過ぎず、乃ち別に意を決し、郡縣を巡遊
して其貪奸の守命を懲らし、政弊を矯し、民疾を問ひ、以て纔かに我が期する所の
幾分を成す、旣に地方の政弊を釐革し終らば、我れ將に山谷の間に入り、岩穴の中
に處し、而して生死を草木と均ふせんのみ、嗚呼混濁せる今時の天下は、孤忠孤憤
の士を容るべき場所を與へざるなり
彼が慷慨淋漓の狀は言詞の間に溢れたりと雖も、旣に和を官兵と講じて武を偃せ
兵を散ぜんと謂ふに至つては、又案外至極に非ずや、嗚呼彼れ果して眞面目を以て
之を言へる歟、否否彼れの顔面は血を濺げり、彼れの眼中は、尋常に非ず、彼れ豈に俄
に其濟民の本領を沒却して、伯夷叔齊の陋態を學ぶものならんや、四人は直ちに此
間の消息を探り、次の言詞を連ねて益益彼を挑まんとす
委員 義に勇み情に激するの極、何人も公の如き說に傾かずんばあらず、然れど
も公少く現時天下の形勢に留意せよ、未だ容易に英雄をして回首神仙たらしむ
るに足らざる者あり
抑も彼れ淸兵が曠日彌久、徒らに牙山に屯して鞭聲終に湖南に嚮ざるは何の故
ぞ、蓋し日本の大兵京畿の野に營戎して直ちに後門狼を進むるの憂あるに因れ
ばなり、淸兵一騎南に馳すれば、日兵亦一騎牙山に向はん、淸其名を東徒の征討に
假り、奇功を建てゝ京城を窺はんと欲するも、時勢の己れに可ならざる、斯の如き
ものあり、如何ぞ其聲言する所を俄かに事實として奇功を奏するを得んや、閔も
亦頃日有司百官の彈劾に耐えず、衷心頗る苦慮するものあり、閔實に內顧の虞あ
り、而して淸亦外患の尋常ならざるを知る、閔と淸と共に恐るゝに足らざるは之
が爲めのみ、今や將軍此の好機に乘じ、其民衆を率ゐて王門を拜し、天閽に向て明
明地眞相を愁訴せんか、一袁世凱何か有らん、一閔惠堂何かあらん、奸臣汚吏悉く
族を殲して追ふを得べし、想ふに君王の聖明なる、能く公の志を憐み公に托する
に安民定國の大事を以てせん、是れ實に公が意を決して起つべきの秋なり、何ぞ
爾く其れ躊躇するや、且つ日兵旣に京仁の間に蟠崛す、公縱し衆を統べて北征の
途に上るとせんも、淸兵斷じて公を追ふの憂なし、此一活機眞に是れ天與の好機
にして、成敗利鈍、歷歷として火を睹るよりも尙明なり、而して兵の拙速を貴ぶは
公の固より知る所、願くば異邦人の故を以て我言を輕んじ、爲めに大事の失着を
致す勿れ
四人の誠意極諫、尙ほ以て彼を動かすに足らず、彼は冷然として之に答へて曰く
兵は兇器なり、容易に用ゆべからず、我徒の執る所の者は義に非ずんば則ち死の
み、橫道は君子の常に賴る所にあらず、唯夫れ形勢の論は公の言に依つて明確掌
を指すが如きを得たり、然れども事の成敗は我徒凡て之を天意に一任せん
彼れ古阜より起つて以來、湖南の地に轉戰すること旣に數閱月、其前に用ゐたる所
の兵は、獨り活人劍にして、將に用ゐんとする所の者は總て殺人劍たりとする歟、英
雄人を欺くも亦甚しと謂ふ可し
委員 天意不殺、公の心とする所、至高至遠と云ふべし、然れども志本と大義を伸
ぶるに在り、權宜に賴り大仁を行はんが爲め、暫く小不仁を爲すが如き、大丈夫決
して之を避けざる也
總督 然りと雖も今や總て是れ敗餘の羸卒、偶偶少壯の者あれば金瘡未だ癒へ
ず、如何ぞ能く之を行るを得ん
委員 果して然らば我等乞ふ將軍の爲めに上京の道を啓かん、一行十餘人、員數
を問へば側ち寡少に過ぐ、然れども皆是れ日本選良の士、加ふるに武器の精銳比
類なきを以てす、公若し我に假すに少許の兵を以てせば、湖西五十城旬日を期し
て皆之を降さん、公豈に濟民の大旗を取つて、移して之を中原原頭に樹つるに意
なきか
仰で彼れを見れば、瞑目沈思、寂然として坐せる枯禪僧の如し、嗚呼天佑俠宿昔の苦
心、終に一廢して地に委すべきか