東學黨中劈頭の日本人
此夜三士は黨軍を辭し去るに臨み、先づ待接の厚きを謝し、更めて之に告げて曰く、
諸大人旣に我等の來意を領せらる、想ふに我が同人も亦以て滿足すべし、冀くば諸
大人また我徒が遠途日に曬され、雨に打れ、幾回か病厄を凌ぎ、艱苦と戰ひ、而して漸
く此處に到りたる微志を察し、長へに之を胸中に劃して以て、遺忘せざらんことを
黨人之を領して拜謝す、三士乃ち席を立つて出づれば、全總督は殿を下つて之を見
送り、配下は門外に竝列して敬禮し、復た前の示威運動を試みず、案內者金普賢手か
ら燈を提へ、嚮導して郊外の客房に送り到る、黨士の悃情至れりと謂ふ可し、誰か言
ふ、東徒は是れ排日の分子なりと、當時天佑俠の見たる所に依つて斷ずれば、之を操
縱して朝鮮革新事業の中堅たらしむる、亦唯だ一呼吸の間なりしのみ、恨らくは我
廟堂一人の達觀者なぐ、前途有爲の黨人をして、空しく其向背を誤らしめたること
を、還て客房に到れば、自餘の俠徒は旣に久く鶴首して其歸來を待てり、而して三士
の還るや、其顔上には微醺現はれ、其雙頰には喜悅を呈す、安慰の情知るベき也三士
は幸にして毫も危險なかりし、否危險を想像して往訪せる當初の決心より見れば、
寧ろ絶大なる歡迎を受たるものなりし也、此夜訪問に依て三士が慥めたる事實は、
東學黨中數多の日本人ありと云へる世上の流言に反し、我が天佑俠の會見以前に
於て、絶て一日本人の同黨に加入したるものなきこと是れ也