義無ければ命ありと雖も亦何かせん
是より先き談端の將に開かんとするや、田中は黨人に對して謂つて曰く我れ旣に
義の爲めに死を許す、是を以て今此陣を叩くに方り、身邊復た寸兵尺鐵を帶び來ら
ず、我が諸公に對して些の戒意を懷かざる斯くの如しと、言ひ終つて冷然右側の吉
倉を一瞥す、然るに吉倉は此時平常の如く、何心無く短刀を帶して坐中に在り田中
の談ずる所、頗る自家の面目に關するあるを見て心少く動き、咄嗟の間一策を案じ
て大に得る所あり、乃ち其談話の終るを待ち、直に黨人を呼んで曰く、兵馬亂離の間
天下往往刺客あり、變形橫行して敢て兇行を逞ふせんとす、此の際三軍に將たるの
士、大に戒心する所なかる可らず、然るに日本の士風、古來刀を帶ぶるを以て例と爲
す、甚しきは之を以て己の精神となし、行住坐臥曾て其身邊より離るゝを許さず去
れど殊邦の諸公より之を見れば、必ずや異樣の感に耐えざる可し、今特に諸公の爲
めに我所謂る精神を除き去つて、暫く之を諸公の手中に委せん、聊か以て我に異心
無きを證とするに足らん乎と、乃ち腰邊の刀を解き、之と對坐せる黨人に與ふ武田
之を然りとし、自ら刀を脫して亦た黨人に附す、黨人乃ち之を東ぬて別房に提へ去
らんとす、全琫準叱責一聲忽ち手を以て之を制して曰く、咄咄臆病漢、爲す勿れ我徒
久く萬馬の間に馳騁し、九死の巷に出入す、仁は我が金甲にして義は我が鐵楯たり、
天下行くとして我黨の畏るゝ者あるを見す、今や貴客義の爲に至重の刀を解きて
顧みず、其丹心眞に欽すべき者あり、我徒何ぞ獨り其利刃に恐れて遽かに之を收む
るを爲さん、適ま利刃あり我が胸に加ふと雖も義あれば則ち之に甘んずべきのみ、
義無くんば能く生を偸むも亦何かせんと、嗚呼是れ東學黨領袖が其肺肝より絞り
出せる至言也