黨使三士を導く
吉倉は例の如く服を錦衣紫袴に改め、頭上に烏帽子を戴き、懷裏に羽檄を藏し、優然
兩士と相提へて去る、往くこと少許、黨軍の使節の復た到るに會ふ、蓋し一行の遲疑
するを疑ひ、其來訪を促さんとする者也、使節は其姓字を金普賢と稱し、任に黨軍の
有司に在り、彼れ三士を見るに及び低頭して合掌し、敬意頗る見るべき者あり、乃ち
之を以て東道の主人となし、行行相談笑して緩步す、金の語る所と其態度とに依て
見れば、全州敗後の黨軍は、頗る憐むべきものあるが如く、三士に取つては殆ど窮鳥
懷に入るの感あり、嗚呼眞摯熱誠にして意氣剛健なる幾千百個の東洋的ビコウリ
タンは、今や其一團の身命を提げ來つて、僅僅十餘名の俠日本兒に托せんとす、彼の
眼中一滴淚なき木强漢の三士も玆に至つては萬斛の涕淚海の如く、一生涯の淚を
逆樣に傾け盡し、淚に次ぐに血を以てして尙ほ惻隱の情を禁ずる能はざりき、顧ふ
に男兒の血淚は點點是れ珠玉、滴滴是れ千金其猥りに些事に向つて濺がざる所以
のものは、卽ち別に至高至大美至善の場合を待つて大に傾注する所あらんと欲す
ればなり、是に於て乎、落淚も亦甚だ容易の業にあらざる也