官人夜珍酒を獻し來る
夜將に九時ならんとす、哨兵來り報じて曰く、府使の許より使人來り訪へるあり、之
を堂上に導かんかと、一人乃ち出でゝ之を迎ふれば、前きの次官及び四五の官人が
府使の嫡子を伴ひ到れる也、譯者使命を通辯して曰く、當府使諸公遠來の勞を慰せ
んが爲め些少ながら我名産の竹酒及び豚牛肉を獻ぜんと欲す、受納を得ば幸甚と、
竹酒は竹に據りて造り、每年國王に獻ずるの慣例あり、一行久しく客中の粗食に苦
む、乃ち悅んで之を受け、使節と共に堂上に團欒して且つ飮み且つ喰ふ、滿堂の、賓主
醉氣旣に闌なり、於是乎或者は凜然劍を按して起つて舞ひ、或者は陶然詩を吟じて
坐して和す、宛如たる一幅の光景異鄕に新日本國を現出せるものゝ如く、一行復た
身の海外に在るを知らざる也、使節之を望觀して惘然自失、只管奇異の感に耐えざ
るの趣きあり、旣にして夜色沈沈興亦た漸く盡き、使節辭し去るに及んでは宴も亦
終に止めり、此夜宴席に於て起居の窮窟に耐えず、獨り私に懊惱せる者を吉倉とな
す、彼は不幸にして使節應接の大將に擬せられたれば殿樣然として坐の正面に跪
坐し、品位を保たんが爲めには、好きな美酒佳肴も意の如く喰ふ能はず空く食慾を
制して涎を流し目を圓くし、左も懷しげに一行の鯨飮馬食を橫さまに眺め、亂舞高
吟を默視して、流汗瀧を成し、自慢の紫衣錦袍も其冠と共に殆んど容儀を亂さんと
す斯の如くして宴の漸く撤せらるゝや、吉倉氣力全く衰へ、喟然として長嘆大息し
て曰く、人生誤つて大將の身となる勿れ、一切の幸福人後に落つと、亦是れ一場の好
滑稽劇たるを失はざる也