靈潭に浴して行陣の勞苦を一掃す
午時進んで一荒村に達す、一行は食を命じて暫く休憩に就く、是時一村老、高聲一客
と牆外に語つて云ふ、亭後に一溪流あり、古來之を稱して靈潭と名づく、行旅の人若
し一度此潭に入つて浴する時は獨り萬病の立所に快癒するのみならず、客中の艱
苦亦全く之に依つて解脫せられ、浴者は日後復た病難傷痛の厄禍に罹ること莫か
るべし、蓋し觀音菩薩の時時乘轎して爰に來浴せらるゝに因つて此靈驗あり、顧ふ
に公も亦客途の炎熱に困弊せるもの也、乃ち試みに爰に入浴せられては何如と。
俠徒の一行亦實に行路の難に耐へざる者多し、氣候の猛烈と食物の不良とは卽ち
其最なるもの也、蚊、蠅、ピンデ、汚穢、旅舍の不完全は其次也、頃來一行の太半が顔色憔
悴して形容骨立せるが如き、其原因正に之より出でずんばあらず、是に於て乎竊か
に思ふ曩きの祠頭に邂逅せる美人の敎へし所、乃ち之れなる莫らん乎、果して然ら
ば彼の美人の一行に對するは猶ほ孟叔爺が入蠻の諸葛の一軍に於けるが如し、天
佑は每に意外の邊より仁義の士の頭上に向つて下る、而して其下るや偶然に似て
決して偶然ならざるものまり、美人或は夫れ觀音の化身ならんも未だ知るべから
す。一行乃ち試みに浴せんと欲して所謂る靈潭の下に到る、溪水淸澄直下して奔
騰し、岩に觸れて碎くるものは連珠の如く、崕に懸つて落つるものは破玉簾の如く
折れて往き、留つて淵となるは碧瑠璃の如く、碎けて飛沬
し、溪に傍ふ處、槐陰あり、草亭あり、溪の中、又別に鳳凰岩あり、其大平面は三四十人を
を坐するに足るべく、更に龍虎石なるもの亦左右より相睥睨して蟠崛蹲踞す。一
行身を岩上に躍らし、悉く飛で潭中に入り去る、水氣の冷なるは氷よりも甚しくし
て皮膚を刺し、骨髓に徹す、天を仰げば太陽炎炎として一脈の微風だに送らず地を
眺むれば受熱火の如く、鐵を熔かすの勢あり、是時に於ける冷浴の快感は縱し之を
藥泉たらずとするも亦旣に天國に遊ぶの思ひをなさしむべし、況んや名にし負ふ
智異山中の一溪村老の所謂る靈驗ある神水たるに於てをや。一行浴すること少
時にして疲勞頓に減じ、身骨忽ち仙氣を帶び來つて、精神の輕快口言ふべからず、旅
舍に歸り午餐を喫する時、胃府の俄に活潑なる動作を始むるの狀は、馬房の老驥を
一驚せしむるに至る、美人の賜も亦厚ひ哉