原頭の小宴
漸く惡馬夫の危嶮を脫したる一行は更に惡馬夫を畏服せしめて維命維を奉ぜし
むるに至る。道は高原の一端に上つて、南江の淸流は遙かに馬蹄の下に在り、眦を
決すれば智異山下の幾村村、綠樹竹林の間に點綴し、山淸丹城二郡の稻野は、蒼渺と
して碧湖を見るが如し、鞍頭の風光覺へず一行をして暫く其鞭聲を緩めしむ、旣
にして一大槐蔭あり、皆馬より下つて爰に涼を納れ、酒亭の濁酒を需めて小飮す、宴
旣に闌なり、乃ち一人をして馬夫を呼び致し、溫言之に問ふて曰く、汝等晉州兵使と
我等一行と孰れか以て恐るべしとするや。馬夫頭を搔き答へて曰ふ、到底公等の
勇猛無敵なるには及ぶもの莫し。一行又曰ふ、汝等能く我に從ひ全羅に赴くべき
乎何如。馬夫默して語なし、蓋し彼等衷情甚だ恐るゝ所あり、共に往かんと欲すれ
ば前途の危險計るべからず往かざらんとすれば或は身首處を異にせられん憂あ
り、以て彼等が到底決答を與ふるの勇なきを知るに足る。於是斷然號令を發して
曰く、我徒は固より馬匹を必要とす、然れども又强ゐて汝等歸鄕の切情を制壓する
の意なし、故に汝等の中、其半數を割きて我に留め他の半數は勝手に去らしむるも
のとせば何如、馬夫固より異議あるべきに非ず、皆命のまゝに從はんと云ふ、仍て從
來最も一行に忠實なりし者には賞として之が歸鄕を許し、其最も奸猾にして晉州
の細作たる疑ひあるものは、罰として長途の苦艱を共にせしむ、歸家する者は滿面
喜色を帶び、留る者は愁情表に溢る、亦是れ一場の滑稽劇なり