荒亭夜泊暗中河を渡る
一行の丹村に達したるは殆んど夜九時に近し、村は丹城の郡衙を去ること僅かに
一里、戶數凡そ五六十戶を出でず、貧邑にして多人數を宿すべき家なし、一行乃ち二
戶に分れて泊す、村端に大河あり、南江の上流なるべし、一行朝來流汗衣に徹し、臥眠
甚だ快ならず、是に於て乎、半夜相提へて村端に赴き、流に入つて浴せんとす。東山
月未だ登らずして夜色茫茫、唯河聲の暗を衝きて急奔するを聞しのみ。偶偶村民
來り告げて曰ふ、雨後の大水、流勢極めて急激、地理不案內の人、宜しく河中に浴すべ
からずと、衆以て意となさず、暗を冒して流を渡り、岸に沿ふて浴游するもの少刻、旣
にして相議して曰く、丹城此處を去る僅か五里河流にして若し人馬共に徒涉する
を得べくんば、今より直ちに彼れの郡衙を尋ねて其太守公に面し、聊か之と相ひ談ず
る所あらん、誰か先づ我黨の爲めに水路を驗する者ぞと、一人あり踴躍して忽ち激
流に投じ、拔手を切て遙かに暗中に泳ぎ去る、衆其誰なるを詳にせざる也、內田他の
冒嶮を見て甚だ之を危み、又其跡を追ふて中流に向ふ。流勢の猛なるは豈に獨り
矢を射るの速力あるのみならんや、宛然一條の長瀑、倒まに天上より落下するが如
し、而して其河底は、總て是れ累累たる粘性石、若し夫れ涉者にして步一步を誤れば、
脚頭は直ちに水力の拂ひ去る所となり、顚倒して溺沒する瞬間の事のみ、內田屆せ
ず、益益氣を皷して驀進するもの約八九合、水勢漸く緩漫、彼岸一躍して上るべし。
是時前面忽ち聲あり、曰く、一渡舟を得たり、形稍稍大に過ぐ、四五人の力以て曳き歸
るに足らん、乞ふ我が爲めに衆を呼び來れと、其聲は卽ら大原義剛なり。內田一諾、
身を轉じで復た是岸に歸り、衆を伴ふて再び彼岸に達す、渡舟に一大繩を附せり、衆
各各死力を出して之を曳き、エイエイ聲して流を橫斷し歸らんとす、人勇めば水激
し、水激すれば人勇み、漸く曳ゐて中流に達するに及べば、激水竟に繩を切斷して、舟
は忽ち暗中に飛行し去る、衆相顧みて憮然、丹城行終に之が爲めに止む。旣に歸つ
て是岸に達すれば、玉兎の明皓皓として對岸禿峰の上より登るあり、流光河面に落
ち來る所、碎けて波間幾千の錦鱗となり、其搖動の狀或は飛び或は跳るが如し、夜色
是に至つて忽然其面目を改む。耳を聳つれば巷歌四面、抑揚して夜烟靄靄の間よ
り起り、砧聲斷續、又茅舍草屋の邊より漏れ到る、赤條條十一個の豪傑、此天樂に醉ふ
て十二分の夜色を占領し、更に酒壺を河岸に運んで盃を擧ぐるもの多時、終に身の
征戰に向ふを忘れて、超然仙鄕逍遙の人たらんと欲す、漸く馬房に歸つて、臥床に就
けば枕頭初鷄の聲、沈然として深更の荒寥を破るあり