晉州城の形勢
中途不意の出來事の爲に、空く時間を費やすこと多し、晉州城外南江の大沙州に達
したるは旣に午時を過ぎたり、沙州は橫斷約半里、有名なる漢江の中州と形勢相若
き、四顧空洞、綠蔭なく、淸泉なく、脚下唯熱砂あるを知るのみ、徒涉の苦艱、口言ふこと
かたし、沙州旣に盡きて路は又農村に入る、路畔始めて淸川あるに逢ふ、流極めて
淺し、一行暑に苦み大路を捨てゝ、特に水中を步し、流を追ふて下る、河岸桃實の漸く
熟せるあり、一行相爭ふて之を摘み、相奪ふて之を食ふ、曰く天下の美果之に過たる
は莫しと、漸くにして晉州城外の一高陵に到る、是れ卽ち加藤將軍の攻圍せし有名
なる晉州古城の趾なり
高陵上ること極めて急嶮、然れども、幸にして日漸く傾き晩涼漸く加はる、內田急先
鋒は名の如く先鋒に立ち、吉倉は之に次ぎ、其他諸人魚貫して之に攀づ、頂に至れば
眼下渺茫、晉州領內の山河は總て指顧の間に在り、皆相謂つて曰ふ、古人の地勢を占
むるや旣に巧にして、之を攻取するもの亦甚だ法を得たり、加藤が鬼上官の稱ある
誠に偶然にあらずと、少憇して爰に勞を休め、又勇を皷して嶮坂を下り去る
一渡頭を越へて柳堤の間を過ぐれば、直ちに晉州殷富の市街に入る、晉州は濠深く
溝長く人家櫛比し、官衙軒を連ぬ其形勢の壯大にして商事の繁昌なるは、我國の城
都にも讓らず、唯仔細に之を觀れば隘屋狹巷、汚水糞泥の間に在りて不潔暗澹の景
人をして一驚を喫せざるを得ざらしむ。然れども此地は兎に角朝鮮第一の木綿
産地たり、晉州木綿の名は、八道到る處其好品たるを知らざる莫し、而して此地の
南三道中屈指と稱せらるヽ所以、亦實に此特産あるが爲めなり。府衙には慶尙道
の右兵使常駐し、市內の戶數は四千餘戶、人口三萬を下らず、府の南には南江の長流
あり、下流洛東江に入つて舟運の便をなすもの多し、府外又棉花の畑地廣漠として
數十里に連り、每年産額の頗る夥しかるべきを思はしむ