咸安客舍に一偉丈夫を見る
休眠は誠に瞬間にして了れり、急行を要する一行は、ビンデ(床蟲)の刺す間も無く其
臥床より起てり。夜來の經驗により、彼等は輜重の多きに比して、馱馬の少きに過
るを悟り、郡城に於て其十分なる準備を調へんとす、思慮ある一二人は乃ち去つて
郡衙を叩き、官馬を假り來り、其不足を補はんと企てゝ果さゞりき。止むを得ずし
て一同朝飯に就く。此時物見高き韓人等は、珍らしき日客の到來を聞き傳へ、故意
に早起して四方より其客舍に聚り來り、馬夫に就て模樣を探り、堂下に近きて動靜
を伺ひ、意中大に畏怖する所あるものゝ如し。然れども此地本と東學の領分、人氣
亦活潑にして東春郡守退治の快擧あり顧ふに群來の見物人、亦必ずしも葛天氏の
民のみなるべからず、一行亦堂上に坐し、眼を注ぎて熟ら群集を觀る。群中忽ち一
個の偉丈夫あり、衆を排して堂下に近き、聲を揚げて共に語らんことを乞ふ、一行之
を許して室に入らしむ、彼室に入り、手に其提へたる扇面を暢べ、之を指して曰ふ、公
等此詩を知る乎、一人乃ち其扇を取り之を讀む、曰く
金樽美酒千人血 玉盤佳肴萬姓膏
燭淚落時民淚落 歌聲高處怨聲高
東學黨の詩とて此詩を日本に傳へたる者は天祐俠之が始めなり
彼更に曰く、我は公等日人の果して何の爲めに全羅に赴くかを知らず、然れども竊
かに惟ふに全羅は東徒の巢窟にして、東徒は由來外人を排斥するものと誤り傳へ
らる、東徒は公明なり、決して外人を害するものに非ざるも人言は信じ易し、公等或
は其讒を信じ行きて東徒の無道を伐たんとするものに非ずや、果して然らば我れ
東徒の爲めに大に辨解せざるべからず。乞ふ看よ此二十八字は、宛然八道今日の
現況を諷譏する者に似たり、生民の堵に安んぜざる、天下豈に我朝鮮の如く甚しき
者あらんや、然り而して其塗炭を救はんこと、到底之を朝臣に望むべからず、民間に
は亦久く義の爲めに立つ者ある莫し、故に世の志あるものは皆東徒頃來の勃興
を悅び、胸中竊に京兵の敗沒せんことを祈る、民心斯の如く旣に歸する所あり、之を
妨ぐるは公等の義に非ず、乞ふ少く我微衷を察せよと、說き來り說き去つて口角泡
を飛ばし慷慨淋漓として至誠面に現はる。一行之を聞き感ずる者少からず、之に
應へて曰く、我徒の全羅に赴く、決して東徒を討たんか爲めにあらず寧ろ東徒の義
擧に就きて始より已むべからざるの情あるを信ずる者なり、幸に貴意を安ぜよ、唯
怪む、足下此郡官の城內に在り、乃ち敢て朝政を非議して危禍を招くを顧みず、何如
彼答て曰く、憂ふる勿れ、東徒の勢力は旣に三南を風靡せり、而して列郡の太守、戰
戰恟恟として唯管他の爲めに旦夕襲擊せられんことを危む、故に彼を揚げて是を
抑ふるは今日の人情なり、亦何の咎かあらんと其言未だ終らずして人あり忽ち又
門外より突入し來る、而して其聲を勵まし怒號する所を聞けば、トグ、ハク、タグ、チヤ
バラー(東徒を縛せよ)の一語なり、彼乃ち急に其應接を中斷し、辭謝一番、身を躍らし
て後庭に出で塀を飛越えて脫し去る、其疾驅の狀、走兎も啻ならず、堂上十個の客は
其後影を望んで暫く茫然たり