空前絶後の夜行奇策
馬夫は馱馬を彼方の樹下に繫ぎて、其處なる一里塚に腰打ち懸け、長烟管を口に咬
へ、呑氣に休んで主公の歸り來るを待つ、ヤガテ諸人は歸り來れり幾束の松火は煌
煌として、闇の夜を射れり、二三百個のダイナマイト幾十貫目の火藥幾百個の導火
及び雷管は豫期の如く一行の手に落ちて、今や旣に馬の背上に在り、用意は爰に於
て全く整ひぬ、衆相顧み一笑して曰く、我徒の元氣を以てして、更に武力の整頓を致
す、鬼に金棒なり、前途何千何百の大敵に出會ふことありとも、一蹶して過ぎ去る、今
は容易の事のみ、爾後愈愈奮つて九死の地を踏まざるべからずと。士氣俄かに振
興して天を衝き地を裂き、斗牛を呑むの慨あり、以て彼等が如何に同鑛山の火藥に
重きを措きたる歟を知るに足らん
唯夫れ夜色は飽まで暗黑にして途上の嶮惡は譬ふるに物なし、河岸、畦路、岩峴、急坂
の一行を惱まさんとする者少からず、而して日本流の松火は、長時間を維持して一
行を導くに十分ならざるなり、況んや夜旣に深けて松火の多く繼ぐべきなし、之を
思ふて衆心稍稍躊躇するものあり、然れども釜山は尙ほ之より近距離にあり、一刻
の猶豫は一行一刻の危嶮を加え來る是に於て事情に通ぜる田中は、忽ち奇計を案
出して曰ふ、朝鮮の俗大官の巡行するに方り途上夜に入れば沿道の各村をして人
夫を割出し、松火を捉へ、以て先導せしむるの例あり。其松火を提へたるものは次
村に達して之を其村民に引繼ぎ其村民は亦先導して次の村に至り、以て次第に次
村に傳へて其夜行を全ふす、吾黨今此法に從はゞ獨り途上の困難を免るゝのみな
らず、又當に幾層の便宜を受て速力を加ふるを得べし、諸君以て何如となすやと。
衆手を拍つて絶妙と呼び、直ちに馬夫を村內に馳せて敎導たる者を尋ねしむ、談判
少頃にして漸く其人を徵發するを得たり、乃ち之をして松火を照らして前頭に進
ましむ、一行の人は其後に從へり、松火は柱大の丸木、火力旺盛、闇を照らすこと數十
間一行は征衣輕く裝ひ短劍長劍各各其腰間に在り、馬夫數名、馬幾頭、又之と前後し、
其行列は宛然として半ば大名的、半ば蜂須賀的の觀あり。凡そ行くこと一里なれ
ば必ず一村あり、村近けば敎導者忽ち大聲疾呼して、ペープロー、ペープローと連呼
す、大官の巡行あり、松火の準備をなせとの意なり。一行亦之に倣ふてペープロー
を呼ぶ、前面の村中漸くにして應ずるものあり、睡氣面に充ちて松火を提へ出で來
り、再拜頓首して一行を迎ふ。一行亦得意滿面、鞭韃して之が脚步を急がし、以て次
より次に及び其出迎へざる村洞に對しては必ず嚴談あり、沿道終に一村の其號令
を奉ぜざるもの莫し、進軍是に於て極めて迅速なるを得たん
前途の希望と後方の危嶮とは、一行の脚力を速めたること幾何ぞ、彼等は輕驅して
終に咸安越への一岩坂に差掛れり。時は猛暑に際し、夜更けて氣猶ほ蒸すが如く、
而して更に攀登の勞あり、衆氣息喘喘、流汗瀑よりも繁し、漸くにして坂頂に達り
休憩少刻而して又馳る。旣にして渴を叫ぶ者多し、然れども沿路亦一穿井、一淸泉
を見ず、已むを得すして個個泥田に就て泥臭の水を含み舌を皷して覺へす甘露と
叫ぶ其情憐むべし。次で又一嶮坂を越え、更に一淺水を渡り未明漸く咸安郡城に
達し、門內の一客舍を叩き爰に瞬時の休眠を貪らんとす