兩士の先發
時は明治二十七年六月二十四日、釜山居留地の郊外、富平洞の大路を優然として步み去
るものあり、手には笏を握り、頭上には烏帽子を戴き、紫彩の袴を穿ち、錦絲浮鶴の直
衣を着け、意氣揚然として顧眄する所、當代の風采にあらず、其人やがて路畔の酒家
に入り、濁酒數酌、陶然として之を出で、吟聲朗朗、九德の嶮坂を攀ぢ登らんとす、微雨
は霏霏たり、烟霞は搖曳せり、燒が如き當日の炎暑之が爲めに消殺せらるゝもの多
し、彼れ愈愈心氣快然として溪に沿ふて走る。後頭忽ち人あり、絶叫して呼んで曰
く、吉倉君、且つ獨り去ること勿れ、我も亦鎭西の一男兒、若冠は自ら若冠の任あるべ
し、乞ふ共に虎穴に入つて虎兒を探り來らんと、吉倉之を顧みれば、平生能く相識る
所の一少年、井上藤三郞なり。彼は其歲取つて僅かに十四、吉倉が主幹する所の新
聞に在つて文撰たるもの、然れども天資精悍にして氣鋒銳峻、凜として犯すべから
ざる所あり。吉倉亦常に其行爲の大に當代の群童と異なるあるを知る。 乃ち容
易に戒諭して去らしむべからざるを察し、先づ之に問て曰く、汝父母の許諾を得て
來れる乎、曰く然り、曰く然らば以て共に往くべしと、終に相提へて征途を急ぎ、其夜
は龜浦の一旅店に投宿せり。
次日曉起、小西將軍の城墟を後に見て一舟早く龜浦の渡頭を過ぎ、やがて廣漠たる
洛東江の中洲を涉り、一水又一水、幾回か舟手を呼んで舟を艤し、滿眸無限の風光を
吟囊に收め得て漸く彼岸金海の領內に達す。路畔に我慶長武者の大墳塚あり、楓
樹常綠交生して假山の景を成せり、兩人酒を濺ぎて古人の雄魂を弔ふ。旣にして
金海の本府 入れり、此地は古駕洛國の首都、我神后亦爰に下陸して三韓を招撫せ
られたる所是を以て探古の情自ら禁ぜざりしものあらん。然れども彼等は尋討
の暇なく、僅かに義人尹子益を囹圄に訪ひ、直ちに馬山浦に向つて發せり、蓋し馬山
浦は船路全羅に向ふことに於て極めて便宜の地位を占めたればなり。
兩人の馬山浦に滯留すること兩三日、舟未だ全羅に向つて發せず、彼等乃ち當時の
轉運御史、後の農商務大臣鄭秉夏を尋ね、或は加藤左馬之助の水城に登臨し、或は土
俗人情を觀て、漸く其鬱勃の情を制せり。然るに何ぞ圖らん彼等が便船を待つが
爲めに費やせる日子は、一方に於て同志十餘名が行陣の準備を完成し、一朝偶然舟
路より此處に來り會せんとは。