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1차 사료

사람이 하늘이 되고 하늘이 사람이 되는 살맛나는 세상
  • 기사명
    中原還逐鹿 投筆事戎軒
  • 이미지
    prd_0140_007 ~ prd_0140_016 (183 ~ 192쪽) 이미지
  • 날짜
일러두기

中原還逐鹿 投筆事戎軒

李氏の子、其政を失してより、五百年の天下、白虹日を貫けること、そも幾回ぞ。湖西
の一卜者は新天子の鷄籠山より發祥すべきを宣言し、列郡之を信じ、民心漸く動き
事終に朝に聞するに至つて、夫を役し之を壞さんとせることあり。嶺南の都鄙に
は流說あり云ふ、家破れ國亡ぶる今より三年を竢たず、封土は半ば折れて俄羅斯に
入り、半ば、日本に屬し、韓人は皆之が婢僕と成了らん、吾等は豫め其滅亡に備へ、向
背を決する所なかるべからずと。江原にも亦飛語あり曰く、李に代るべき鄭は金
剛連峰の中、濃煙深霧の間より顯れ來らん、如今は則ち其人持重して俄かに立たず と雖、一度足を擧るに至らば向ふ處破碎せざるなく、京軍は甲を解いて之に降るの
外なからんと。湖南の人は亦行客に說きて曰く、新天子は、烟波渺漂たる海中の一
島に隱れ棲めり、一帶の紫雲、之を纏帶して絶へず官兵の來り討ずるを遮ると。國
家不祥の兆は、斯の如く陸續として四方より報ぜられ、其人心を騷がし、八路を驚か
すの甚しき、終には一般に浮語を信じて人に向ひても亦新時代の遠からずして必
ず到來せんことを確言し、翹首して之を待つ者あるに至る、思へば今や李氏の運命
薄氷を蹈むよりも尙ほ危き地位に立てり。

斯かる時に方りて、所謂民亂なるもの、百姓一揆なるものは、亦續續として各州郡よ
り勃發し地方政治上の困難を加ふること一方ならず、就中最も中外の耳目を聳動
せる民亂は、忠淸道の山郡、報恩地方を中心として嶺南、湖西の兩道を攪亂したる東
學黨人の擧兵なり。此騷亂に於て、道主(大監督)崔時享自から黨人の統督に任じ、徐
丙鶴、孫海中、黃河一の各接長(監督)之が左右翼となり、尙州の沃野を擁し、秋風嶺の嶮
要を扼して盛に威を遠近に輝したれ共、天時未だ到らずして江東の子弟次第に四
方に散じ、圖覇の雄心、終に伸ぶるに及ばずして大事空く休めり。然れども此一擧 に依りて世人は始めて朝鮮に東學黨なるものある事を覺知し、爾來其一擧一動に
付漸く注意を用ゐ之に對する警戒を怠たらざることゝ成れるが如し。

黨人の第一擧は事實上失敗に終りたるものに似たれど元來廢亡の形勢に陷りた
る朝鮮に在りては官吏の暴虐益益其度を加へ、民怨愈愈重りて誅求愈愈劇しく、竹
槍席旗の內憂、除かんと欲して復た除くを得べからざるなり。去れば二十六年の末
より、二十七年の春に至る迄、北道南道の物論每に恟恟として止まず、其勢の激する處、
或は中和或は吉州、或は咸安、或は金海の各郡より、往往百姓の爲に身を擲つて奮起
するものあり。中にも金海の尹子益の如きは、二萬の衆を率ゐて郡の大山面より
興り、終に其殘虐なる府使を追ひ退けて、身自ら衆に代つて遠島の處分を受くるこ
とゝはなれり。然れども是等の民亂に在りては總、て一地方の利害に重きを措き
て眼、國家の大局に渡らず、是を以て旣に一官吏を退治して漸く民仇を復し、終れば
其亂亦忽ち治り去つて、復曩日紛擾の跡を止めざるを例とす。

爰に湖南泰仁の地に、鄕士、全琫準なるものあり、年齡正に四十にして、識學自ら博く
放膽にして愼重、氣慨あつて果決なり、幼より東學の開祖崔濟愚に就ひて其敎を聞 き黨人間に在つて最も衆望を有す、是を以て終に擧げられて其接長となり、威名次
第に南三道に振ふ。崔時亨の嚮きに武を慶忠の間に示すや全は濟衆の時未だ到
らずとして、俄かに起つて之に應ぜんとせず、獨り退ひて湖南の僻陬に潛み、寂然と
して岩穴に棲し、自修他導、唯敎の爲めに孜孜として盡す所あり衆望之が爲めに愈
愈加はる。然れ共全琫準亦極めて覇氣に富めるもの、焉んぞ無爲にして其一生を
醉生夢死の間に空過するを得ん。唯彼れや其器局、時人に比して頗る宏闊に、眼識
亦甚だ遠大なるものあり、是を以て念、一び民生の疾苦に及べば連想、直ちに國家興
廢の事に至り、從つて閔の跋扈を憤り、妃の淫縱を憂ふること一方ならず、乃ち天下
の禍根を絶つは、先づ之が元兇を斃すに在りとし、靜かに野に處し、韜晦して自ら發
するの機を竢つ者久し。然るに果せる哉、其機は終に到れり。彼か隣鄕古阜の郡
守は每に勢に賴り權を弄し、民怨を顧みることなくして强て其收斂を恣まゝに
せんとす。黨政上、古阜は彼が任たる接長の管區內に屬せり故に彼の親人と彼の
黨人とは先を爭ふて皆彼れの許に集り、彼の速に起つて其大なる手腕を揮はん
ことを勸めたり、然れども彼未だ容易に之に應ぜんとはせざるなり。彼れが威名 を慕へる黨員外の隣境の人も、亦彼を訪ふて俱に起たん事を要請せり、然れども彼
は尙ほ神色自若として動く所なきこと、猶ほ木强人に似たり。嗚呼彼れ何の爲め
に爾く動かざる歟、他なし、一時事に激し、自ら犧牲となつて區區たる一郡主を制す
るも、其禍根にして永遠に絶たれざる限りは、更に他の惡吏の來つて之に代り、前任
者の經驗に依つて、尙ほ一層の暴政を施すべきを以て、なり、結果此の如んば、鄕人に
利する所なくして黨力に損する所多し、彼れの多年滿を持し、機を窺ふて起たざる
所以、正に之か爲めなり、否、彼が如きの人物は、誠に千歲の一人なり、彼にして此國家
危急存亡の際輕輕其身を處して進退宜しきを失ふあらば國家は亦彼と共に亡び
ん、宗廟亦彼と共に倒れん、彼れの其身を重ずるは、固より其所と云ふべし。然れど
も彼も亦男兒なり、世に處して豈に一個の大野心、一片の大功名心なからんや。去
れば談判數回の極、彼は終に衆人の己が隱退を許さゞるを見るに及び、決然其赤心
を吐漏して曰く、諸兄の志旣に義の爲めに斃るゝに在らば我亦何ぞ强て其擧に
同せざることあらん、唯我が欲する所は東學の所謂濟世安民の大義を伸ぶるに在
り、一道を亂るも誅せらる、八道を亂るも亦誅せらる、誅は一なり、願くば事功の大な るを取らん、諸兄の意幸にして爰に決せば、我亦奮つて其驥尾に附し、復た骨肉を
以て念とすることなく、決然として道の爲めに殉せん耳、敢て諸兄の決心を望むと。
是れ誠に彼の眞面目なり、否是れ獨り其眞面目なるに止まらず、彼が多年滿を持し
て放たざりしは、深意或は機に乘じて這般衆人の合意を促さんか爲めなりし乎を
疑はざるべからずとす。於是元來彼を仰ぐ事泰山北斗も啻ならざる衆人は、直に
彼れの陷井の陷るゝ所となり、萬口一齊彼の萬歲を稱し、彼を擁し、雀躍して彼と
共に彼の草盧より蹶起せり。

暴吏の占據せる郡衙は一擊にして彼の爲めに破らる、此處に蒐集せる金穀は、彼直
ちに散じて之を多年困弊せる郡民に施與せり、彼が私利心なき此措置は、益益隣境
人の欣慕する所となり、彼が義軍は期月にして四方より來投する者數萬に及ぶ、彼
の名聲は日に益益振ひ、黨軍の到る處は、百姓簞、食壺醬して之を迎へざるなし。是
に於て彼又檄を連邑に馳せ、擧兵の要旨を三南所在の諸豪に致し、俱に與に約を
立て力を合して君側の奸を拂はんと計る。諸豪應ずるもの踵を接して續き長興
の李爺は八十余歲の老軀を賭して郡民を煽揚し、順天の李福龍は、十四歲の若冠を 以てして四萬の義兵を擧げ、烽烟千里、旌旗野を蔽ひ、各路より正正堂堂として全州
の監營に逼り來る、官軍出討するもの一望して氣喪し、胆落ち復た能く一人の戰を
言ふ者なし將相亦皆狼狙して、群議出づる所を知らず、恐怖の極、終に大淸の天兵な
るものを乞ひ得て來り、讒に之を以て黨軍を威壓せんとするあるに至れり。

於是、前の湖西の一卜者の言は縱し全く當らずとするも、嶺南、江原の飛語流說は、尙
ほ未だ其時機に達せずとするも、湖南人が話せる所は、今や漸く事實に近からんと
して五十六管は正に其兵馬悾愡の修羅の巷たり。去らば全琫準は、彼等の所謂新
天子にして、李の王朝に代るべき運命を有するものにあらざる歟。縱令ひ然らず
とするも、彼は日後、萬里長驅の勢を以て朝鮮の南方を席捲するに及び、滿腔の覇、氣
終に開南國王の尊號を自稱するを禁じ得ざりし。然らば則ち天の曆數、必ずしも
彼が頭上に落下せざりしものと斷言するを得ざらん、惜ひ哉、當時吾國、彼を御し得
る底の大人物なく、彼をして空く濟世興國の雄志を齎らして、九泉に逝かしめたる
事や。

韓山八路の騷亂は、今や其極に達して、傲頑なる淸國は慢然として之に援兵を與へ たり、日出處の國裏、遙かに之を觀望して、腕鳴り血湧もの何ぞ限らん。唯時勢漸く
惰弱に流れて、萬里の建業を志すに人なく、上下苟安を以て是れ得たりとなし、偶偶
非凡破格のものあれば、指斥して狂暴となさゞるは稀なり。去れど志士軍人の一
部には、尙ほ意氣昂然として聊か與に語るに足るものあり、彼等の或るものは靑年
士官三四十名を一團となし、短艇銃を積み藥を載せ、星夜馳せて全羅海の波浪を破
り、或地點より上陸して東學黨に投ぜんと企て。又或者は北國九州年少氣銳の士
五六十名を募り、之を送つて東黨の勢焰を加へんと計畵し、兩兩交交潛かに爲す所
ありたれ共、此の時遲く、彼の時早し、意外にも又意外なる一團の俠徒、總勢擧つて僅
かに十五名、驀然として慶尙道の南部、馬山浦の一角より全羅の內地に突入し、大膽
にも暗夜、數萬の東黨の陳門を敲いて、斡乾轉坤の大手腕を海外に振はんとするも
のありける、之が爲め機先を制されたる志士軍人の遺憾や思ふべし。

一團十五名の俠徒とはそも誰をか指す、卽ち當時世に喧傳せられたる天佑俠是れ
なり、借問す、彼等拾五名は當初より其志を一にして事に朝鮮に從ひたるものな
る乎、將た彼等個個の志を以て奮起し、中道にして意氣相投合するに至りたるも の乎、乞ふ聊か次に於て述ぶる所あらん。

彼等の精神に在ては個個の間、固より秋毫も相異なる所なし、然れども彼等の系統
出處に於ては、皆各各相同じからざるものなくんばあらず、今其出處を區別すれば
大略左の如し。

(一)京城派 田中侍郞關屋斧太郞本間九介柴田駒次郞の諸人之に屬す、彼等は
二十四五年の頃より京城に在つて觀風の志士を招來し、二十七年の春に至り事
情あつて釜山派に合同せるものなり。

(二)釜山派 二十六年吉倉汪聖が朝鮮再遊の時、大崎正吉千葉久之助を伴ひ行き
後筑前の武田範之白水健吉、千葉の葛生修亮對馬の大久保肇、其他數名と釜
山に梁山泊を築き、爰に居る事二年、其間終始意を朝鮮の內亂と開導とに注
ぐ所ありしが、終に京城派を包容して聲威益益振ふ

(三)筑前派 關屋斧太郞、吉倉め忠言を容れずして、同志と共に筑前に至り、別に
爲さんとする所あり、此時恰も天眞館の內田甲が末永節等と共に事に朝鮮
に赴かんと欲する志あるを聞き關屋乃ち之に謀る所ありたれ共、內田彼 が其準備を內國に於てするを危しとなし、百方其中止を勵め、言聽かれざる
に及んで玄洋社の大原義剛と共に、先んじて韓に入る。

(四)二六派 釜山に於ける京城釜山兩派の合議に依り、大崎正吉を東京に派し
て鈴木力等を招く、入韓の途次、時澤右一、大阪より之に加はる。

以上四派相合して、釜山より馬山浦に渡り、突然烽煙を昌原の鑛山に揚げて幾場
の活演劇、之より生じ來る。

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