12月21日
●變服間諜日記 (二)
安達如囚
(朔寧方面より平壤に進む)
八月廿四日 朝隊長を訪ふ、隊長予等に勸むるに
共に北進す可きを以てす、予は支隊の戰爭も面白
しと思しかば斷然同進を乞ふ、同行の人人は金川
駐在の軍隊に用事あるを以て今日同地に向ふ可し
といふ、則ち袂を分ちて同行諸氏の金川行を送り
しは正午頃なりし、予は此日一時頃突然として一
の勤務を與へられたり、則ち變服して谷山に向ひ
敵の有無、將た有らば步工砲騎各何人、彼等は何
處より來り何處に去らんとするか等の諸件を偵察
す可き勤務なり、且つ直に出發す可しとて韓錢及
び糒等の必要物を渡されたり、午後五時頃ツエン
ミ峴下に着農家に宿す此夜瘧を患ふ、
八月廿五日 昧爽峴を上下して進むこと半里、天
漸く明けて朝霧山腰を辭するの頃、身を韓人の背
に托して進み來るものあり、見れば去る廿二日途
中にて相逢たる吾斥候二人なり予を見て挨拶する
勇氣も無く靑ざめたる息の下より、平康にて二百
人の敵に遇ひ追擊せられ晝夜漸く虎口を脫れ兼行
して來れり、今大隊本部に急報する處なりといふ
予は野田等の身の上如何を聞たるに彼等は今安峽
に着せしならん他分は無事なるべしといふ、則ち
又谷山に向ふ、安峽邑にて野田等の健在なるにあ
ふ、喫飯掃部軍曹と手を携へ伊川院村に至り、吾
が大隊より分遣せる第五中隊に會し宿す、
八月廿五日 中隊の和田中尉と共に伊川府使を訪
ひ米穀を徵發し、淸兵の爲めに船隻を借す莫れを
命じ、予は孤身飄然として谷山に向ふ、府治を距
る一里許古城津あり、臨津江の上流にして激流奔
湍渡舟に坐して毛髮を立てしもの幾回なるを知ら
ず、步すること二里にして千峴あり下れば道二ツに
分る、一を平康より谷山に通ずるの細路となす、
淸兵が常に來往するは實に此道なり、予は此道に
出でてより少しく戒心の度を加え、午後五時頃松
亭里に着す、戶數二三百もあれど炊煙の上るは僅
か二三に過ぎず、これ淸兵に掠略せられて盡く
山谷に逃れたるが故なり、一邑民に就いて淸兵の
有無來往の數を問ふ、曰く十八九日より此道を通
行するもの日に幾人なるを知らず、然れとも日本
兵伊川に在るを聞き兩三日前よりは殆んど隻影を
見ずと、時に日脚猶未だ高しと雖も前途人煙なか
らんを恐れ此地に宿することに決す、則ち里人に眞
桑瓜を持來る可く命ず、里人笑つて胡人は兵糧無
くして餘程飢餓に迫りたるものと見え眞桑の靑い
澁い奴まで食つて行きましたといふ、晩餐の菜に
難を命ず、又曰く此頃は數里の間雞の聲だに聞
くを得ず焉んぞ雞を得んやと恨めし氣に訴ふる如
く辭せり、余は止む無く僅許の麥を周旋せしめ
麥飮を炊ぎて食ふ、里人の言に依るに淸兵は此邑
にて六十有許の老婆を强姦し去れりといふ、
八月廿七日 粟を炊ぎて腹を充し殘餘を握飯とな
し腰に付けて出發す、蓋し胡人に掠奪せられて中
途食事する能はざる可しといふ松亭里人の忠告に
よれる也、進む里餘銅店里といふ、佛國宣敎師玆
に居住すと聞き、訪行く、在り、室內狼籍冊散り
書亂れ衣服の類は土間に投け出され、甁コツプの
類は處きらはず碎け居れり、名刺を通す、彼はダ
ツトルと稱する者にして可なり韓語を綴れり、曰
く昨日まて淸兵の亂暴を山中に逃れ居れり室內の
器物財寶は多く淸兵の爲め强奪し去られ、今は食
物さへ差支居れりといふ、蓋し淸兵等福州戰爭の
餘恨を玆に晴らし行きたりとせば江戶の仇は長崎
で打たれたやうな譯、甚た氣の毒といふ可し、支
石市場にて握飯を晝食に充つ、此地は谷山、新溪
の地境にして亦遂安に通ずるの大道に當れり、故
を以て淸兵の牙山より平壤に赴くものは是非共此
地に寄らざる可からず、爲めに村民は多く遁逃し
殘れるものは乞食然たる赤貧者のみ、村端に淸將
聶士成の揭示文あり曰く、淮軍の某朝鮮人某の家
に闖入して某を毆打し剩へ財物を劫奪せしを以
て斬に處す云云、村民に之を問へば事實なりとい
ふ、予は重ねて然らば淸兵中朝鮮人を毆打し財物
を略奪せしもの彼一人なりしやを問へば否否を
高聲にて連呼して曰く、哈良兀共は兵糧無き故大
將と雖も民物を奪つて食はざるよりは盡く餓死す
るの徒なり、然して譯申的に彼を殺して亂暴略奪
の罪を無辜なる彼一人に歸たるものと、談話進ん
て淸兵か村邑を惱ませし樣を語るの際に至つては
唾津を溢らし眼をムキ出し無神經なるサラミも眞
に遺恨骨髓に徹するものの如し、此地にて谷山官
衙の司令に逢ふ、酒を與へて谷山の事狀を聽かん
とせしかと、滿村人煙無き慘乎たる地に酒を賣る
家も無ければ、先つ草鞋買ふべしとて錢二十文許
與へそろそろ谷山の樣子を探るに、淸兵七人各牛
一頭つゝを牽き昨夜谷山に一泊して去れり、彼等
の言に依れば日本人の伊川に在るを恐れ谷山より
三登に向つて遁れ去るものに似たり、且づ今日は
二百人谷山に來る可しと言ひ去れり今は一人も無
しといふ、〓〓二百人〓〓思ふにこれは廿四日に
平康にて吾が斥候を追擊せし其二百人ならんか、
疑は起れり、何となく氣味惡くなりたり、然れ
ども其影たに見ずして報告す可きやうも無ければ
猶ほ進んて一里半許行く、民家四五十あり人民も
四五名は見えたり、余は猶彼等に今日二百人の淸
兵谷山に入込むとの評判を聞きたるかを問ふに、
彼等は前面なる高山を指して彼の山の麓に臨津の
上流繞り流る村落あり宋院里といふ、玆を距る一
里兀良哈は彼處まで來れり、此村民も慥に見て歸
れり。
宋院里は谷山若しくは遂安に通する細路に當れり 彼奴此戶扉に關公依幕處と書き居りたるとは知ら
今日は必す谷山に進む勿れ、宜しく街道を距るこ
と遠き村落に宿す可しといふ、予は村民の指した
る高山を見て地勢を考ふるに、道側の小山より山
續きなれば步して山巓に攀ぢ登り行かば山上より
展望するを得るが如し、則ち辛じて彼の高山の半
腹に至れり、臨津の上流は眼の下なり、五六軒ば
かりある小村は河に濱してあり、二百人の淸兵正
しく彼の村落に在りとせば屋外に夥多の淸兵をも
らさゝる可からず、然らば彼等は已に前進せしも
のならんと、山を下りて、五六戶なる村落に向ふ
この村落は則ち宋院里なる由にて居民は六七十の
老翁一人あるのみ、淸兵の隻影だに見ず、されど
瓜の皮の剝散し蜀黍の食殼抔は家の前に夥多棄
ありたり、正しく淸兵經過の跡と見えたり、老翁
に問ふに淸兵何人經過せしやと問ふに、此翁聾と
見え、只手を打振つてオプソオプソといふ、オプソ
は『無い』といふ言葉なり、叉手何が無のやらオ
プソやらサツパリ分らず、オプソジヤない支那兵
を聞くのだと言ひながら、有合の卷煙艸一本取出
し先つ彼に食はしむ、
めは予を韓服を着けたる支那兵と思ひ居たる樣子
なりしも漸く日本人なるを知りしと見え、余が問
はざるに高聲にて支那兵經過の摸樣を語る、曰く
殆んと五時間許前三十人許の支那兵此村に來れり
此川には元來二隻の渡舟ありしも日本人の命令な
りし故なりとか伊川府使は盡く之を數里の下流に
繫ぎたり、故に淸兵は止むを得ず、人家の戶扉抔
を集めて筏を造り彼岸に渡らんと試みたり、見ら
るゝ如く吾家の戶扉は斯の如く破られたり、
ず、筏と爲して其上に身を載せ、やがて中流まで
漕行きたり、氣味の好さ關公の冥罰、筏を編みた
る繩はブッツリ切れ、アワヤと狼狽ふる隙も無く
三十人の彼奴は激流に押流され、チユチユハオ
ハオ
を藻搔く面白さ、僅に助かるものは七人のみ、夫
れも多少の傷痍を帶びたり、今頃は三四里も進み
行きつらんか抔、親の仇を打たやうの大喜び、老
翁も亦無邪氣といふ可し、予は更に想ふ、此溺死
者三十名は則ち此日此地を過ぐると聞きし二百人
の內ならんか、サラバ猶一百餘人は必ず谷山に向
ふて來らん、谷山に潛行して彼等の消息を探るに
若かずと思ひしかば、再び支石市場に歸り、村民
を僞りて曰く、予今日谷山に向はば恐らくは淸兵
に捕獲せらる可し、故に予は方向を轉じて新溪の
村落に一泊し難を避けんと欲すと、村民之を贊す
則ち予は新溪方向に進む爲して中途より稻田を通
じて再び谷山の街道に出づ、コレは少しく迂遠の
仕方なれど、一體韓人の性質たる其言決して信を
措くに足らざれば、假令谷山淸兵無しといふも有
りといふも之を探るには、其進退出沒は決して韓
人をして知らしめざるを要すればなり、彼の元山
支隊の騎兵が順安にて韓人に欺かれて敵の伏に陷
らんとせし等も考ふべし、予は思はざる隙をつぶ
して此日は殆んど晩近くなり、塒に歸る群雀、枯
木の枝に鳴く烏、何となく孤客の情を牽く、此地
より谷山の城下は五里餘あり、今日は隨分足も疲
勞れたりしかど敵に近くは夜行却つて妙ならんと
進み行く、谷山を距る一里許なる村落に着せしは
十一時過ぎなり、谷山は流石敵の在ると思へば、
余の戒心は益益深し、則ち一步一戒を加えて漸く
谷山の町端れに進めり、恐ろしと思ひながら進む
る足、一町も步みたらんかと思はれし時、忽ち余
を驚かしたるは、道の側にスクマリ居たる數羽鵝
鳥の突如として鳴き出したるにぞある、就いて吠
▣るものは犬なり、狺狺として丑滿時の靜肅を攪
したり、余は斯くては到底目的を達し得ざるを思
ひしかば町を避けて再ひ町端にもどるに、サラミ
共目を覺したりと見え戶口に火を燈し何やらん囁
やく聲も聞ゆ、耳を欹つるに、胡人なり、胡人な
りといふも聞えたり、扨ては犬の警報は支那兵の
入來れるものと信じ居る也、余は明朝を期して深
く探らんにと決心し其夜は南大門の城櫓に攀ぢ登
りて僅にまどろみぬ、