12月15日
●せめては草 (十二)
天眼生
活完
是に於て猶急ぎ行くに、此珍事に遇うて精神を引
立てし結果として、幾分か脚の輕きを覺えたり、
二里許りにして一邑在り、邑民に晩餐を供せしめ
むとするに、我等の影を見るや皆逃げ去るを以て
村社の裏の方に廻りて五七個のサラミを捉へ、威
嚇して曰く、我は日本人なり今公州より至る、路
に淸兵に遇ひ、盡く斬殺し來れり、汝等速に食を
供せずんば臍を嚙むも及はざるの事立ころに生せ
むと、邑民大に驚き、ヨボヨボを連呼して隣保の
潛める者を起し來る、一人二人寄り初めるや、サ
ア寄ツたツた例の通り廐の蠅よりも多し、中に吏
房三四人あり、我等に向て頻りに愛想を言ひ、邑
民を督して美味を供せしむ、漸くにして飯を運ぶ
者有り鷄卵を携ふる者あり、味噌附を出す者有り
各種の食物を持寄りて予等を取卷く、五個の豪傑
先生傲然として箸を把り、以て甘しと爲し、大に
邑民を嘉賞す、狃れ易きサラミは近よつて終に燒
酒など出し來り、早く飮むて去り給へ、淸兵が尙
二百人許り先方から來ます抔忠告す、豪傑連大に
機嫌よく、長老を召して邑の名を問ふ、長老地に
書して『活完』にて候と答ふ、一同思ひ設けし危難
の案外にも手答無く濟みて、今又此盛饗に遇ひ、
快愉實に言ふ可からざるに、邑の名までが活完と
は餘まりに不思議なり迚益益悅び、嗚呼徹頭徹尾
天祐天祐、淸兵更に來る有るともモー大丈夫ぞと
語り合ひにき
因に云ふ此邑は一體に淳撲の風有りしかども、淸
兵二百人今にも來る樣に言ひしは、我を驅り去る
手立なりしこと、後にて氣が附けり、サラミ往往此
類の智慧有り、油斷はなる可からず
又云ふ活完に削り立ての新木を立て、墨黑黑と書
き置きたる故、視れば中國天兵諸公大人、請憫民
撫衆云云の句有り建てたる主は、其邊の寺の坊主
なる旨も添え書きせり、鹵掠をして吳れるなと云
ふ哀訴悃願の意を此標本に現はし、邑人等皆己れ
共は畏ろしき故兵隊の通過する時は遠く山中に遁
れ居る也、去るにても淸兵の通過せるは此日の曉
方なりしに手廻しよく建てけるものよ、
偶然佛菩薩と爲る
活完を去て又捧脚を牽摺り、行くこと未だ半里なら
ずして忽ち復た前面に支那兵の來るを認む、今度
は僅かに七人なり、最早先刻此種の動物の與し易
きを實驗したれば、此方は平氣を極めて前む、彼
方は流石風聲鶴唳にも膽を冷やす敗兵の憐れさ、
我等を見て色を失ひ、鐵砲をば逆さに擔ぎ跪いて
哀を請ふ、戲れた一喝せばピクリとしてヨロヨロ
合掌す、其狀眞に氣の毒なり、急先鋒すら彼等が
轍の鮒が放生會に遇ふた如く逃げ行くを見て、最
早刀を瀆すに忍びずと白狀しぬ、銃を逆まに擔ぐ
は葬式の時と降伏の意を表する時に限るとやら九
百は說明せり、吾等此時初耳なりき、此後三人一
組四人一組、同樣の敗兵に遇ひ、孰れも放ち遣り
て偶然佛菩薩と思はるゝ功德を樹て、漸く進むて
而して天漸く暮る、而して到る處の民家亂を避け
て人盡く空しく空屋に入りて檢すれば、前夜淸
兵狼籍の迹と見え、米鹽亦全く索き、鷄骨藁茅の
四邊に散亂する有るのみ、因て已むを得ず又行く
こと半里、初めて人有る家を路傍小丘の上に認め、
就いて一回の餐を供せしむ、亭主の曰く、昨夜大
國人來りて盡く米麥を奪ひ倉中餘粒を遺さずと雖
貴人能く錢を給せば奴請ふ近里に趨つて購ひ來ら
むと、卽ち銀一圓を投じ速に米を調はしめ、且つ
同人相助けて槐の樹の股に棲窟つくる鷄を捕
へ、松下に柴を燒き明を取つて之を割烹し、例の
通り亭主が無と斷言する茄子其他を有にさせ互
に謂へらく如何に疲勞すとも、十數日來渴望せる
美味の爲めには此勞を厭ふ可からず、且つ滋養物
を腹に入れ一休息の上又出發す可しと抑公州より
安城までは十五里强にして、中に車嶺の嶮有り、
公州より八里許りなり、予等會ふ所幸にして二十
人足らずの敵兵なりし故にこそ、却て彼より畏れ
らるゝ身と爲りもしたれ、嶮の彼方に達せぬ間は
敵地に在るも同然なれば、夜を徹しても尙此峠を
超ゆるを萬全の策と思惟し、此れより僅に二里半
ならば、美食の勢に乘じて峠の彼方なる天安迄漕
ぎ付くを得可しとの意見にて、斯くは食事に丹精
せる次第なり、
然るに米飯鷄汁の調うて、我先に箸を把り舌皷打
ち畢りし頃は恰も十一時過ぎにも爲りけむ、腹滿
つれば眠氣サツトさして堪ゆ可からず、誰一人進
行を發議する者なく、亂蚊雷の如く山氣冬の如
き中に、死人の如く倒れて、淸兵の來襲も何もか
も頓着なしに終日の苦を華胥の鄕に拂ひたり、實
に是れ日本國民が永久に記臆す可き成歡役の當日
に於ける予輩の境界にして、予輩に在ては特に記
臆さるゝ七月廿九日の夜也、
車嶺の嶮
此夜淸兵通過の恐は幸にして杞憂に歸し、安全に
夜の白け渡る迄眠り得て、徐徐車嶺の險に發る、
是より先き昨日淸兵の道塗に委棄せる者旗竿、兵
服、靴等に過きざりしが、此に至て彈藥箱の所所
に捨てられたるを發見せり、箱は石炭箱の大イサ
にして、光緖六年抔燒印有る者も見えたり、此他
ピンヘツト、カメオ等の空箱所所に落ちて在り、
松明の火で煙草を吸ひ乍ら驅け出せしと思はる、
彈藥を檢するに藥質上等なり、いたづら心は忽ち
湧けり、導火を點じて箱を千仞の壑に轉がし去る
暫くにして爆然の㗽山谷に震ふ、衆看て以て快と
爲す、遂に絶頂に抵れば豫ねて同志の愛する老翁
茫然として舍に在り、予等を見て水を供す、有名
なる冷水なり、翁に煙草を要むるに、翁は前曉淸
兵の亂暴に會へる狀を訴たへて曰く、匕もサバル
(井)も奪ひ行けり、彼等は盜賊人なりと、因りて
室內を檢するに憫むべし此老爺、着の軀、着の儘
に家財を奪はれ、商賣の材料たる檐に弔せし煙草
をも一葉殘さず取り去られたり、然るに此翁元來
篤實極まる男にて、我黨の二人曩に京に赴くに當
り一書を彼に托し、若し公州より斯く斯くの風體
の日本人來らば交付し吳れよと依賴み去りたりし
に後數日、長髓子が過ぐるを見て、急に思ひ付き
跡を追ふこと二里餘にして追及し、件の手紙を子に
渡し、急用と見ゆる故貴下願くは公州の日本人に
屆け吳れよと賴み、其儘歸れる由、長髓より聞き
たれば、韓人には珍しき奇特ものとて我等一同彼
れを不憫に思ひ、三十錢ばかり惠與しぬ、
車嶺の嶮たる京城より公州に至る間の第一の天險
にして、眞に一夫之を守れば萬夫も超ゆ可からざ
る要害たり、我等同志、開戰の機に投じ此天嶮を
扼し得たりしならば、ムザムザ千餘の敵兵を取り
逃がしはせまじきものを不幸にして同志隔絶此好
機を失ひぬ、殘念殘念と叫ぶこと數回なりしも愚痴
にはあらず、後に成歡牙山の役の實況に照すに從
がつて、實際殘念の度を增す次第なり、顧ふに向
後萬一朝鮮の形勢一變し、日本が東學黨に對して
消極的政策を執る樣の場合生せば、官軍と東徒と
の爭點は此車嶺の要害に在るべし、よろづ朝鮮を
識ると云ふ上より考へなば、吾等の筆徒に陳話と
のみ侮り給ふ可からす、