12月12日
●せめては草 (九)
天眼生
稻妻や劈かれざる巖もなし
長髓子の來れるは廿七日也、此日予は急用有り近
傍四里の地に往復し、深夜山房に歸り初めて相談
ず、金は來れり厚く山僧に酬ゆ可し、卽時出發は
傷者急先鋒が((五里や六里のめつても行く、其內
には役人の馬でも奪うてやろう))と云ふ壯語に因
て氣强くも決せられたり、衆翌朝黎明に打立たむ
と主張す、去れど最も憊れたる予は我自らと最も
痛める傷者とが、强いて一時の我慢を張る共、前
途に至りて血氣竭きさるを保せず、セメテ翌日午
前丈も休息せむと主張し、遂に出立は廿八日の午
後五時に及び、晩風に乘して山を出つ、同行七人
內二人は卽ち寺の下男にして輜重方也、一里半に
して一邑に出つ、時に傷者の脚棒の如く其面色土
の如し、乃ち進行を中止し此所に泊る、翌朝未明
に起き公州に向ふ、此地より公州迄本道は二里半
間道を行けば一里半に過ぎず、吾等意朝餐前に公
州城下に至り、馬匹を府使に强請せむと期せるが
故に間道を取る、間道は頗る險峻、邑より直に峴
に掛かる、吾等險坡を登る十數丁、東方チラリと
白けぬと見れば、只聞く山巓に人語の囂囂たるを
何事とも知らず尙も進めば、人民の荷擔して逃る
ゝ樣子なり、中にも被衣着たる美麗の女子さへ有
り、貴人の出奔を識るべし、心中何事の起りて斯
く騷擾するにやと訝り、急ぎ絶頂に抵り公州の方
を瞰下すに、驢に乘る者牛を牽く者續續此方に走
り來る、乃ち韓人を捉へて事の由を問ふに、彼れ
只言ふ大國兵丁二千許り昨深更より今曉にかけて
公州城に至ると、其答ふる間さへ戰慄して逃げ腰
を爲し、或者は我等を兵丁と思ひ、畏懼して荊棘
の中に避け去り、或者は我等を見て元來し路へ引
き反し、毫も淸兵何故に來りしかを說く者なし、
蓋し京城事變後日本兵が迅速に淸兵を攻め得べし
とは、吾等當時斷定し得ず、實に今より追想すれ
ば不都合なる了見なりしかど、日本政府の下に立
憲的軍隊を以て自ら居る人人が斯くバシバシやつ
附け得可しとは其當時實に信せざりし也、シカシ
雲脚の急なるは固より識れり、日淸兩軍間に殺氣
の加はるや必定と信せり、韓人が二千と云へば千
人の淸兵は來り居る可し、千人の正兵に五人の敵
對、協はぬは知れたこと也、公州城下に立寄るは危
きに近つく者なれば、少しく路を避くるに若かず
と思ひ、卽ち峴の絶頂より公州城の側面に出る工
夫を案ずるに、此峠の半腹より右に折れて、一條
の路ありと韓僕は云ふ、乃ち導かれ至れば、豈圖
らむやスグ下は卽ち公州に達する本道なり、坂一
つ下れは其本道に出る外無し、本道行かむか矢張
り畏る可き兵衆の眼に觸れざるを得ず、引戾さむ
か山寺亦安地に非す且つ中原の急に應ずるの期無
きを奈何せむ、加之韓僕は畏縮して進まず、大事
の輜重を抛つて遁走せむと企つること再四回、腹は
全く空しければ疲勞は著るしく加はり、傷者の我
慢を思ひやれば辛さは一しほ也、進退殆んと玆に
谷まる、
夫れ必要は人をして道を發見せしむ、吾等終に本
道を行き三四丁にして右へ折れ一の田圃路ある山
を聞き得たり、卽ち林間に息ひ悉く輜重を解き、
衣服、旌旗、鐵砲道具、藥品、韓錢、毛布等苟も
荷に爲る者は總べて韓僕に交付し以て山に還らし
め、各自皆輕裝して一刀を橫へ、重要品を分担し
て趨る、田圃路に出れば瓜畠有り、寄りて各各一
個を獲、其をかぢり乍ら急行す、路盡きて江畔に
出つ、左盻すればコハ如何に公州城の一角は五六
丁鼻先に立つ、尤城市は蔭に在りて人目を避くる
には便なりしが、見渡せば眼前は大江地圖にも載
せらるゝ錦江の一帶、舟なくては渡る可からず、
渡津は城市に直接し、渡船の往來歷歷認むべくし
て而して僅かに其五六町が死地活地の劃線なり、
げに((一里二里なら儘よと自由よ、僅か二三丁目
がまゝならぬ))と河井繼之介が謠ひけむ心も思ひ
當られ、如何はせんと躊躇ふ內に、此方の岸上に
は朝鮮官吏が淸兵の命を奉し人夫を徵發すと覺し
く、役人竝に擔軍の來往織るが如し、今や彼等の
目に懸からんかと危まれて心も心ならず、乍去固
より此川を越すの外には生地無きこと故、一人早速
に衣を脫いて飛ひ込み、若シヤを當テに淺瀨を探
れり、其間四人は沙汀に伏して衣を解き、各各頭
上に衣類と刀とを括り付け、瀨蹈みの者の合圖を
待つ、元來此近邊若し徒涉すべき淺瀨あらば必す
韓人の足跡を沙岸に認むべき筈なるに、其痕無け
れば、吾等已むを得ず、泳いて對岸に達する外な
しと思ひしかど、捨て難き重要品を所持せるを以
て、縱令泳くにしても、泳ぐ距離が極めて僅小に
して足るべき瀨を發見せむと望めり、此希望は空
しからす、僅か一間許りを除けば水量は盡く頤に
達するに過きざる場所を發見せり、是に於て一同
十里廿重に包みを頭上に緊ばり、一步一步深みに
入る、最も深き所に至て急に拔き手を切りたれど
三人は荷を濡らし、一人は水泳に達し平氣なり、
而して長髓子はガブガブ步行たなりで一向驚かず
首尾能く對岸に着し、ホツト一息する間もなく一
人忽ち叫むで曰く、溜まらむ、支那兵が居るぞ、
彼れ見よ!、皆皆ギヨツトして指す方を瞰やれば
成程渡しの舟に黑衣の漢八九人立てり、凡そ韓地
に在て此當時黑い衣物ほど目に附くは無し、韓人
は悉く白衣なれば也、此黑い物を見し時の我等隨
分氣持惡しかりしも、此方は白衣故彼れより認む
るに難ければ、其點丈を賴りに强いて纔かに安心
しぬ、 (未完)