12月11日
●せめては草 (七)
天眼生
壯士機智脫虎穴 (續)
抑抑急先鋒が如何にして嬲り殺しの慘禍を危機一
髮の間に免がれ得し乎と云ふに、頗る奇なる天運
に出で容易に想像し得ざる機智の偶中に歸す、其
次第は卽ち此憐むべき囚人は韓語に通ぜねば、何
一つ言ひ解くべき術もなく、手足緊しく縛ばられ
たれば、唾を吐き掛け耳引張らるゝ儘、看ス看ス
彼れが砥ぎ澄ます庖丁の漸く己れが頸に加はるを
待たざる可からず、庖丁の赤鏽は一分每に剝げた
り、彼れが生命は一分每に縮まれり、憤を叫ばむ
乎息たえだえ、救を呼ばむ乎滿目渾べて是れ我
の肉を狙ふ赤鬼羅刹、正に是れ釜中の魚、俎上の
肉、半秒の間無限の苦痛を嘗めつゝ、アワヤ暴民
の死刑宣告を受けむとす、事是に至る智慮も以て
濟す可からず、膽力も以て用ふるに足らず、冷か
にして闇き魂の緖の辿り端は、縫に天命てふ
二字の觀念に依りて朧ろげに薄き光を添ふるのみ
嗚呼、噫、斯かる至危至急の一刹那に當りて、眼
底に一條の潤ひを引ける此觀念は、不思議にも、
萬死の重もき磐石の下より、天運に偶合せる一語
の芽をばボツト發しぬ、彼は氣附くとも無しに唯
一語〓〓彼れが入韓以來記臆せる韓語の總べて
なる〓〓唯一語を思ひ出しぬ、何ぞや如何なる
語ぞや、曰くトーンマーニー(金錢澤山)の一語是
れなり
半ば死の淵に瀕したる彼は不思議にも此一語に氣
附きて、覺へずもげさうなる腕を振り、兩の手首
を搖かし、兩掌以て頂く如き態を爲しつゝ、朝鮮
トン、マーニー、トーン、マーニーと叫べり、斯く叫
べる彼の心中には、固より之を完全の策と信ずる
程の隙も無く、只苦し紛れに錢をやると云ふ樣子
を爲せし迄なりし也、去れど斯かる時斯かる事に
氣附く程に落着きたる報酬は、其偶然にも天運に
合したる結果に依りて証せられたり、卽ちギヨロ
眼の野郞は錢の一語聽いて耳を立てたり、兩掌
を動かす樣に依りて少なく共十貫文は取り得ると
思ひしにや、ニタリと笑へり、鬼の大將株に何や
ら相談せり、談は怪しうも迅速に纏まれり、一漢
は後ろに廻はり、囚人の兩腕をグンと引き背に膝
をドンと當てつゝ縛を解けり、囚人は此時腕も脊
も折るゝ許りに痛み、殆んと悶絶せむとせしが不
思議にも縛を解かれたれば、宛ながら夢に夢みる
心地して、我身で我身の現在を疑ふばかりなりき、
斯かる所に中壇の僧は割り入り來れり、顔を見識
れば頻りに勞はり、且つ邑人に向ひ狂暴悖亂を喩
す如くなり、暴民等は僧侶に遇うては稍稍角を折
らざるを得ず、頻りに日本人が侮辱を加へたる故
是非に及はず打叩けり迚、噓だらだらの言ひ開き
を爲し、且己れ共が毁わされたる▣の損害要償、
傷けられたる十數人の膏藥代合せて十五貫文を卽
刻拂ひ吳れよと迫る、僧は歸山の上此人に拂はす
べしと誓ひ出來合の受人、輒ち此場を預かり永居
は無用と傷者を携へ還りし也、元來急先鋒、韓國囚
人を縛めの繩の下より兩手を示し以て賄賂の額を
定むるの風習を識りしならば、斯かる頓智も出て
勝ちなれと、彼は毫も右の如き立入つたるやり方
をば識らず、只急場に不圖浮べる機智が偶然此藩
國の陋習にスツカリ箝まりたる次第にて、天運實
に際ドキ所に存せしと謂ふべし、
サラミの呑氣なる、己れ此豺狼の行を爲し乍ら、
眞顔で膏藥代を要求し、其れが取れると思ふのみ
か、明日は官吏より逮捕の官人を廻はさるゝ共氣
附かず、又吾等の逆鱗に觸れて鏖殺に遇ふかも計
らず、一遍離してやらば卽時に彼等が畏るる刀持
つ日本人と化する邊までは考へ及ばず、錢澤山や
ると云ふ餌に釣られて、咬ひ付く迄に憎みし仇を
放ち還へす其了見の奇なる、單純と云はむか野蠻
と云はむか、蠢愚と云はむか、呑氣さ加減どう見
ても氣が知れぬ此動物、サラミの神經明日に達せ
ずとは此邊なり、
壯士虎口を脫せる夕、寺の下男は頻りに金をやら
ねば邑人押し寄せ來るべしと心配す、吾等も警戒
の方法を議せり、一人は曰くサラミめモー忘れ居
るならむ、一人は曰く否とよ錢の事なり餘事とは
違へばやつて來るべし、一人は曰く進擊しやうか
一人は曰く是れまで謹愼してさへ無用心配を受く
る今日、此上韓人の二十人も斬つた抔云はゞ、理
も非もなしに吾等は天下の御尋物と爲り了らむ、
大事を抱く此身蟲を殺す外なしと、遂に滿腔の鬱
憤を抑へ、暴徒押し寄せ來る迄は、我より手出し
せぬことに一決し、乃ち明煌煌たる三尺の秋水を拔
き、起つて庭前に舞ひ、傷者病者苦を力めて吟聲
に和す、少頃にして一齣止み、舞ふ者一株の靑桐
庭隅に立つを認め、是れ幸ひと走り寄り、短衣搏
虎南山下の一句を誦しつゝ、大喝してバラリと斬
る、樹偃れて轟然たり、卽ち肅然として蹈雪歸來
夜讀書の句に移る、山僧初めより環視し、是に至
て薄氣味惡げに舌を卷く、示威の狂言は首尾能く
中れり、坊主は此夜馳せて京天に抵り、日本人の
同志大に憤怒し將に當邑を屠らむとせり、我等百
方救解汝等の災を未前に防ぎ得たり、汝等向後敢
て山中に來る莫れと告く、擧村爲めに震駭し、我
等一臂を勞せずして敵を屈するを得たり、
急使來る
脚底より鳥の立つ不慮の災難に、思ひ立つ心の駒
を引止むる外なく、三日が程は專念遭難者の傷口
を洗濯しやるに務めしが、此間に公州の府司は使
者を遣はして吾等を慰問し、暴行者を捕へて吾等
の意を迎へ、媚事至らざるなく、山僧亦傷者に鷄
卵を供し抔したれば、吾等結句氣安く、急先鋒亦
元氣非常の性なるが上に年少血氣、瘡口の肉勃勃
として刻刻に隆起するかと想はるゝ許りなれば、
馬一頭をさへ獲ば中原の急に赴くに難からずと勇
み立つに至れり、斯かる所に急使は至れり、同志
の一人長髓氏(此人長脚善く走る故に此稱有り)は
京城方面より晝夜兼行して予等を迎ひ急き起たし
む、其語る所に依れば、廿三日の夜日本人はとふ
とふ京城に事を果せり、各國公使は中立して日淸
兩國相互の意嚮に朝鮮問題を委せり、陸軍は牙山
方面に進軍するやも測り難し云云、之を聞ける吾
等當時の心中嬉いやら悔しいやら、只管激昂して
一飛びにも京城に走らまく思ふ心の切なるのみ、
長髓は別後の狀を聽きて尙云へり、兄等遲遲せば
必ず淸兵に路を絶たれむ、此近傍亦戰鬪地と爲ら
む、然らば淸兵韓人と與に兄等を攻むるや必せり
是れ好むで萬死の地に安ずる者に非ずや、事急な
り、傷痍の痛苦を論ず可からず、スグにも出發せ
よと、抑抑急なる場合は渾べての分別と議論とを
呑み去るを常とす、此報に接して吾等いかで躊躇
すべき、一も二もなく卽時出發に議決せり、
議決はせるものゝ、叉手顧みれば馬は才覺附かず